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ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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ほのさんから学ぶ、「ケア」についての考察 その1

このところずっと、
なんだかいろいろなことに追いつめられているような気がして、
どうにもならんかった。

確かに、なんとかしなければという問題があって、
どれも一朝一夕にはいかないものばかりで、
途方に暮れてしまうということもあったのだが、
その根本のほうを探っていくと、
かあさん自身の目がくもっていた、
ということに気がついて、
愕然とした。



ほのさんから学ぶ、「ケア」についての考察 その1_f0199379_18515942.jpg



ほのさんは、4歳を過ぎた頃から、
本当に目を見張る成長をしている。

小さい頃には全くかかなかった汗をかくようになって、
だんだん体温調節が自分でできるようになってきたとか、
腹筋を使って形のある便を自力でできるようになったとか、
体調的な成長もある。

また、右手を自分で動かすようになったことは、
とても、とても大きなことだ。
「脳死に近い状態」と言われたほのさんにとっては、
ほんとうに、驚くことだ。

そして、こちらの問いかけに対して、
以前よりもことばを理解するようになったのか、
「いやだ」とか「そうじゃない」といった意思表示が
はっきりしてきたように感じている。

そして、そんな成長ぶりは、
かあさん一人ではなく、
ほのさんに関わってくださっている方々の口からも
聞くようになった。



実は、ほのさんのこんな成長に、
一番驚いているのはかあさんではないかと思っている。

ほのさんの「生きる意志」という、
ことばでは説明しがたい、だが確かにほのさんにあるものを見出してから、
かあさんは、
「ほのさんはなんでもわかっている」と思って、
そのように接してきた。

もちろん、何かをするときには必ず声かけをするし、
日常的なとるに足りない会話とか、
冗談を言い合ったり、
ふつうにしてきた。

そして、何より、
「ほのさんはどう思っているか」
ということをいつも考えて、
それを尊重するようにしてきたつもりだった。


だが、このところのほのさんの反応を見ると、
ほのさんはYESと言うだろう、という問いかけに
嫌がる反応をしたり、
はっきりとはわからないが、
「そうではない」というようなことを一生懸命言っているようなことが多くでてきて、
それはふつうに子どもの成長からいったら、
「自我がでてきた」ということなんだろうが、
今までこれだけ「ほのさんの自我を大切に」とこころがけてきたはずなのに、
それを、目の当たりにすると、

なんだか「こんなほのさんの成長を見ることができるなんて思っていなかった」自分がいることに気づき、
もちろん、この上ない親としての喜びを感じているのだが、
なんだか、ほのさんを「見くびっていた」ような気がして、
あの子に一番近いはずのかあさんが、と
ショックだったりもする。


そして、ほのさんが何か一生懸命言っているようなときに、
ほのさんが感じているであろう「もどかしさ」を思い、
かあさんも「わかってあげられないもどかしさ」を感じる。

人と人の、「ことば」を介するコミュニケーションは、
わかりやすい。

こういう理由で嫌です、
と言われたら、
ああ、この人はこの理由で嫌なんだ、
と、聞く側の腑に落ちやすいという意味で。

だが、ほのさんとのコミュニケーションは、
ことばを介さない。

表情や、リークを利用した、さまざまにトーンを変える声、
目の開き具合や眼球の動き、
顔の紅潮具合など、
ほのさんは全身を使って、
たくさんの情報をくれていて、
それらが合わさった「ほのさんの気持ち」が、
ことばを介さずに直接かあさんの心に飛び込んでくるのだ。

それは確かにかあさんに届いているし、
ほのさんそのものから(ことばなどを介さずに)届いたものなのだが、
受け取った「ほのさんのきもち」を誰かに説明するために、
ことばに変換しようとすると、
かあさんは本当にわかっているのだろうかと、
たちまちあやふやになってしまうのだ。

でも逆に。

たとえば、とうさんとかあさんのコミュニケーションの場合。

当然、ことばを介しているわけだが。

どうして○○だったの?
とかあさんが問えば、

●●だからだよ。
ととうさんが答える。

一見、とてもわかりやすく、
わかりあえているように思うけど、
●●ということばが、とうさんの気持ちそのものではなく、
もし、とうさんがかあさんだったら、
そのときの気持ちを●●ということばではなく、
別のことばを選んで表現するかもしれない。

ことばを介するコミュニケーションだって、
「わかりあえている」と思うのは過信だし、
相手の本当の気持ちなど、
そっくりそのまま理解することは難しいという前提がなければと思う。

そう思うと、
ほのさんの表現方法、
ほのさんとのコミュニケーションの取り方は、
特段むずかしいというものでもないわけで、
ほのさんだって、ことばを話す人だって、
伝えること、わかりあうことの難しさは同じだと思う。



だが、そんなことをはっきり確信するまでに、
ほのさんの母親でありながら、
かれこれ4年の年月が経っている。

ほのさんという子が、
どこへ行っても、誰と接しても、
そんな風に理解してもらえるようになるには難しいし、
簡単に説明することができる術を持たない自分も、
ほんとうに歯がゆい。

そして、そんな説明をしなければならない世の中は、
なんというか、
残念だ。




ほのさんという子を説明するのに、
フューチャーされがちなものに、
「ケア」というものがある。

この「ケア」ということばが、
結構なクセモノだ。

ほのさんは、毎日たくさんの「ケア」が必要だ。

排痰&吸引、
排尿のために膀胱を押す用手排尿、
胃チューブの交換、
体位交換、
気管切開部のガーゼ交換、
検温、
目を綺麗にして点眼&眼軟膏を塗る、目のケア、
口腔ケア、
清しき、
整容(爪切り、髪をとかす)
などなど。

それらすべてをひっくるめて「ケア」と呼んでいるわけだ。

もちろん、ほのさんのそれらの「ケア」は、
全部、とうさんとかあさんが行っている。

だが、それらの「ケア」をお手伝いしてもらおうと思うと、
誰でもがやっていいものではないものもあり、
看護師はOKだけど介護士はダメめとか、
それならそういった類の「ケア」を「医療的ケア」と呼ぼうとか、
いやいやそれじゃあ日常的に困るから、
介護士でもできるように法改正しましょうとか。

そもそも「ケア」は、
本人が生きていく上で必要なことであるにもかかわらず、
本人目線と言うよりは、
おうちで、病院で、学校で、
どの職業の誰が担当するかという分類から考えられたり、
それぞれの「ケア」をいかに安全にうまく行うかという、
「手技」としてのクローズアップがメインで、
そのことは、それらの「ケア」を必要とした、
ほのさんという「全体」をとらえることを逆に難しくしてしまうこともあるように思う。

そして、ほのさんを全体として、
つまり一人の人間としてとらえることをしなくなると、
そのことで「ケア」もうまくいかないということも起こるように思う。

わかりやすく言うと、
たとえば、用手排尿というケアをするとき。

人間の膀胱の位置はこの辺りかな、
と、まず解剖学の知識。

試しに押してみる。

出ない。

力が弱いのかと、もう少し強く押してみる。

出ない。

場所が違うかな、と少しずらしてみる。

出ない。



確かに、用手排尿は、
ほのさんのケアの中でも難しい。

だが、このやり方では、おそらく無理だ。

ほのさんに、どう?と聞いていないし、
力任せに押しても、
痛くはなくても「イヤ」かもしれない。
ほのさんに「だいじょうぶ?」と聞いて、
顔色を見て、
涙を流していないか、
顔が赤くなっていないか、
目をつりあげていないか、
本人の気持ちを聞いてみる。

そして、もし自分がされたらどうかと想像してみる。

息をして胸が膨らんだときに、
逆におなかを圧迫されたら出しにくいかもしれないから、
呼吸にあわせてやってみようか、とか。

あまり長く押し続けても苦しいだろうから、
小刻みにおしてみようか、とか。

おなかをマッサージしながらやったら安心するかもしれない、とか。

ついてに「のの字」を書いてみたら、便もでやすくなるかもしれない、とか。

おなかを押しすぎてカサカサになってしまったからクリームを塗ってあげよう、とか。

よしよし、がんばってるね、
って頭を撫でてあげよう、とか。


そんな風に「ケア」を通して、
「ケア」をしながら、
ほのさんと心を通わせていくことができるし、
ああ、ほのさんてこんな方法で気持ちをお知らせしてくれるのね、
と嬉しくなったりかわいくなったり、
本来、「ケア」はそんな機会なのだと思う。



たとえば病棟で、ほのさんのおしっこを出す、
ということが看護師さんのお仕事だとして、

「おしっこが出ない出ない」と、
出すことばかりを考えていたら、
ほのさんの気持ちはどっかに置き去りで、
「おしっこを出す」というケアをしているときに、

ああ、ほのさんは嫌がると顔を赤くするんだとか、
涙をながしちゃうんだとか、
ほのさんという子をわかるチャンスを逃してしまって、
ほのさん自身もひょっとしたら、
この看護師さんは「あたしのいうこときいてくれない」と
インプットしてしまうかもしれない。

ひとつの「ケア」は、
ほかの「ケア」にも通じる。


ひとつの「ケア」で、
ほのさんの嫌がる反応がわかれば、
ほかの「ケア」をしているときでも、
ああ、ほのさん嫌なのね、とわかる。

排痰ケアのとき。

痰が出やすくなるように、
胸と一緒に背中を動かす。

ずっと寝ていると当然、背中は固くなる。

「痰を出しやすくするため」だけではなく、
ほのさん、せなか、いたくなあい?
とマッサージしてやる。

もう少し手を伸ばして、腰の方までマッサージしてやる。

やっぱり固い。

そうだよね。ずっとよこになってるといたいよね。

と、肩もほぐしてやる。

「排痰のケア」は、排痰のためだけではなく、
少し想像力を持ってやることで、
全身がほぐれ、リラックスし、
「結果的に」痰が出やすくなる→ラクになる。


そんな風に、
「ほのさんのからだ」が成り立っているというあたりまえのことに気づくことで、
一つひとつバラバラの手技ととらえていた「ケア」は、
ほのさんの健康と快適さのためだと、
本来の目的を思い出すことになる。

そして、ほのさんがラクになって、
気持ちよさそうな顔をすると、
そうか、もっとやってあげよう、と思う。

「ケア」からは始まったほのさんとの関係は、
どんどん、どんどん広がっていく。


「ケア」は、ケアする人がケアされる人を知る機会でもあり、
ケアされる人が、自分のことを全身で伝える機会でもあるのだ。

そして、ケアされる人は、
ケアしてくれる人の「手」から、
たくさんのことを読みとって、
ケアしてくれる人がどんな人で、
自分のことをどう思っているのかを知る。

「ケア」は、「ケア」そのものでもあり、
ほのさんにとって、大切なコミュニケーションでもあるのだ。




また、「ケア」には、
「いのちを守る」という大切な役割をするものもある。

ほのさんにとって、
特に、排痰ケアは生きていく上で最も重要なものだ。

ほのさんは、生まれたときの脳に受けたダメージが大きかったものの、
特にそのほかの臓器に異常はない。

この4年間のほのさん史上、
ときおり小さな風邪を引いたりするが、
そのほかは、かあさんよりも元気なくらいだ。

ただ、そうして元気にしているためには、
この排痰ケアが欠かせない。

呼吸は脳が司っており、
その脳にダメージを受けたほのさんは、
人工呼吸器の助けを借りている。

決められた圧、回数で肺を膨らましているのだが、
自分で痰を吐き出すことができない。

「呼吸」と言うと、
「吸う」ということばかりを思い浮かべがちだが、
「吐く」ということもとても大切で、
そのときに肺の奥の方にある痰を気管のところまで、
無意識にだしているのだが、
それができないほのさんは、
呼吸器にあわせて「吐く」介助をしてあげたり、
体を右向き、左向き、仰向けなどのように動かして、
痰を移動させながら吸引しやすくする必要がある。
その一連の動作を「排痰ケア」と呼んでいる。

健康な人にしてみれば、
「痰」」を意識するのは風邪を引いたときくらいのもので、
普段その存在すら気づかないようなものだけど、
それだけ無意識に自力で処理する働きが体にあって、
その働きができないほのさんだけが、
痰が異常に多くて、取ってあげなければならないというわけではなく、
「痰がでる」ことは、みんなと同じことなのだ。

排痰ケアには、基本的なルールがある。

それプラス、「個別性」ということが大切だ。

ほのさんは、痰が少ない方だ。

だが、痰が少なくても、
吸引チューブの届く気管支のあたりまであがって来にくいので、
そこまであがってくるようにという介助が何より大切だ。

吸引してみて、痰が少ないからだいじょうぶ、
と放っておくとすぐに詰まって、
呼吸不全になってしまう。

そこの念入りな介助を日に何度もして、
吸引するときも、普通よりも深めにカテーテルを入れないと、
痰を確保できない。

つまり、教科書通りの知識プラス、
ほのさんの特徴を理解してケアにあたらないと、
せっかく時間をかけて行っても、
痰は取れないし、苦しいし、手間はかかるし、で、
何もいいことはないのだ。

きちんとした知識と、個別性を理解すること、
それも「ケア」の鉄則だろう。


「ケア」にもいろいろな性質のものがある。

「お世話」的なものと、
「いのちを守る」ためにきちんとやらなければならないもの。

それらをまとめて「ケア」と呼んでいることでの苦労もある。

たとえば、入院したとき。

ほのさんは、具合が悪くて入院するのは1年に1回程度。

そのほか、年に1回の検査を兼ねたレスパイとで、
それぞれ1週間くらいの滞在だ。

日に日に成長して、体も大きくなり、
また体調にあわせてケアの仕方も日々、
ほのさんと相談しながら変更しながらやっているので、
半年ぶりに病院にお世話になりに行ったときには、
スタッフの方の入れ替わりもあるし、
すぐにすべての方にケアをマスターしてもらうというのも正直難しい。

痰詰まりで入院していても、
かあさんがいなければ痰を出せない、
おしっこも出ない、となれば、
入院中はもちろん、朝から晩まで付き添って、
おうちにいるのと同じように「ケア」をし、
レスパイトいっても、
元気に家を出たのに、帰る頃具合が悪くなっては困るので、
毎日必ず「ケア」をしに行く。

そんな時に、必ずいわれることは、

「おかさんが一番だから」。

あるいは、

「おうちと同じようにはいかないよ」とか、
「おうちと同じことを望んでも無理だよ」とか。


言われる度に、
なんだかわからないけどモヤモヤしつつも、
そうだよなあ、と思ってきた。

おうち生活が長くなって、
ほのさんと過ごす時間も一番多いし、
何より「母親」であるのだから、
「かあさんが一番」だろうし。

おうちでは、かあさんが「ほのさん専属」でみているから、
なんでもすぐに気づくことができても、
病院では、ほかにたくさんのこどもたちがいるから、
おうちのようにいくはずもないし、
実際、「おうちと同じように」を望んでいるわけでもない。

だが、なんだかよくわからないけど、
その「おかあさんが一番」には、
ずっとずっとモヤモヤしていて、
なんどなくその文脈からして、
褒められているのではないことは確かだった。

昨年の11月に痰詰まりで入院したときも、
救急搬送する日の2週間前くらいからずっと、
日に何回も痰が詰まり、サッチュレーションを下げ、
バギングしたり、普段は使っていない酸素を使用したり、
片手で吸引、片手で胸を押す動作の繰り返しで、
かさんの左手は上がらなくなっていたし、
吸引が10分に1回くらい必要で、
ほとんど眠れない日々だった。

それで、結局左肺にほとんどエアーが入らなくなって、
入院となったのだが、
このときも、朝から晩までかあさんが付き添い、
その間はほとんどすべてのケアをおこなって、
ときおり看護師さんが、
「おかあさんお手伝いしますか」と行ってきてくれた。

面会時間が終わるまでに、
できる限り、ほのさんの肺をよい状態にして帰っても、
翌日、病院に着くと、
明け方、痰が詰まって、二酸化炭素が120になりました、
と報告を受けることが何度かあった。

付き添っている間にも、
酸素を流していても急激にサチュレーションを下げ、
看護師さんを呼びたくても見あたらず、
探している暇もなく、
なんとか復活させるということもあった。

そして、やっぱり、

「おかあさんが一番だから」

と何度も言われた。



家でみていても、
どんなに手を尽くしても、
どうしたって痰が詰まることはある。

だが、手を尽くして、
手を尽くして、もう限界で、
それで病院に連れていっても、
結局、日中は自分がみているような状態で、
それで、付き添えない時間帯に「痰が詰まった」と言われれば、
それはもうどうしようもなくやるせない気持ちになる。

看護師さんたちに、
ほのさんの排痰の効果的なやり方を覚えてほしくても、
まさに詰まっているときに、
かんごしさーん、と呼んで教える余裕などあるはずもなく。

詰まる→かあさんが対処→看護師さんに覚えてもらえない

という悪循環は入院中ずっと続き、
入院前の大変な経過もあったため、
結局、ほのさんの退院前日に、
かあさんが倒れる、ということになってしまった。

そして、
「おかあさん、やすんでくださいね」
と、声をかけてもらっていたことも、
すごく、辛かった。



ほのさんと生活をしていて、
一番、深刻な事態は、

「かあさんが倒れる」

ということだ。

このときは、ほのさんは入院中だったから、
かあさんが倒れても、まだセーフ、
ということに、本当だったらなるのだが。

この入院生活をみていたら、
ほのさんが唯一、預かってもらえる病院でさえ、
ほのさんが安心できるところではない、
ということを心底思い知って、
ずっとずっと、考えてきた。





「おかあさんが一番」に関するモヤモヤについて。


つづく。




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by honohono1017 | 2012-02-13 18:53 | Life
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