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ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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どうでもよくて、どうでもよくない「呼び名」のはなし。

河北新報が11月24日、とても興味深い記事をあげている。

河北新報社が全国遷延性意識障害者・家族の会などを対象に
実施した調査を分析した結果などの内容だ。

以下。


「植物状態」家族7割超拒否感 偏見に傷つき苦しむ ⇒ 詳しくはこちら

遷延性意識障害 全国アンケート(上)追いつめられる家族 ⇒ 詳しくはこちら
遷延性意識障害 全国アンケート(下)制度に不満、漂流続く⇒ 詳しくはこちら

12時間超介護4割 遷延性意識障害・全国アンケート    ⇒ 詳しくはこちら


「遷延性意識障害」とは、少し難しい言葉だが、
そもそも、どういう意味なのか。

日本脳神経外科学会によれば、
以下のような定義になっているという。

1.自力移動が不可能である。
2.自力摂食が不可能である。
3.糞・尿失禁がある。
4.声を出しても意味のある発語が全く不可能である。
5.簡単な命令には辛うじて応じることも出来るが、ほとんど意思疎通は不可能である。
6.眼球は動いていても認識することは出来ない。

以上6項目が3ヶ月以上続いた場合を「遷延性意識障害」とする。



遷延性意識障害と脳死の違いは、
ざっくり言えば、生命維持を司っている「脳幹部」が生きているかどうか、
の違いらしい。

脳幹部の機能を失っている脳死の場合は、
通常は10日以内に心停止に至るとされており、
ただし、、30日以上脳死状態が続く場合を、
【遷延性脳死】(長期脳死)と呼ぶ……

などとされていて、
正直、よくわからない。

(脳死は本来、10日以内に心停止に至るはずなのに、
脳幹部の機能が失われていても、30日以上いのちが続く場合、
「脳死」の定義を見直すことをせずに、
「のびのびになっている」という意味の「遷延性」をくっつけちゃったり、
じゃあ、遷延性脳死は、遷延性意識障害にふくまれるんですか、とか、
定義って、なんなの、と心底思うのだが……)

遷延性意識障害は、一般的に「植物状態」などとよばれ、
記事の中にもあるように、
偏見や社会の理解不足に8割以上の家族が苦しむ実態も明らかにされ、
7割以上が「植物状態」と呼ぶのはやめて欲しいと訴えているという。

偏見や社会の理解不足が、
回復の可能性を失くしてしまったり、
必要な医療・福祉サービスが受けられない原因となってしまうことは、
本当に避けなければならないことだと思う。

アンケート結果の中にも、
周囲から受けた差別的発言の具体的な事例が書かれていたが、
それは我が家にとっても、身に覚えのあるような言葉たちだった。

あくまで、医学的な定義が、
その人たち、その人の家族たちの暮らしを脅かし、
生きているということそれ自体を批難されたり、
ただでさえ難しい生活を、さらに助けを少なくしているような実態は、
あってはいけないのはずなのだが、
この調査のようにはっきりとわかってしまうと、なおさら辛い。


実際に、それは、我が家も体験していることだが。
(ほのさんの場合、脳幹部の機能も失われているらしいので、
「植物状態」というよりも、もっと辛辣なこと、言われます)



そもそも、病気や障害の中でも、
「意識があるかないか」というラインは、
他人から見た時に、大きな違いとなっているように思う。

つまり、
「意識がない」とか「意思疎通ができない」場合、
「生きているといえるのか」
という議論に発展しやすいと思うのだ。

確かに、「人間らしさ」とは何か、
というようなことを考え出すと話は難しくなってくるが、
じゃあ逆に、意思表示ができない、
厳密には、みんなと同じようにことばで意思表示ができない人は、
生きているとはいえないのか、ということになる。

これは非常に難しい問題だ。
ほんとうに。



ほのさんは、ことばをしゃべることができない。
身振り手振りで表現することもできないし、
目や手や足をわずかに動かすことはよくあるが、
本人の意思で動いているのかどうかはわからない。

だが、ことばをしゃべらなくても、
身動きができなくても、
ほのさんは涙を流したり赤い顔をして苦痛を訴えることができるし、
楽しく活動的なときには、大きなリーク音でおはなしし、頬を紅潮させる。

それらのほのさんなりの表現は、
私たち家族のやりとりを可能にしてくれているし、
伝え合っているのだが、
それを言えば、
「ほんとにそうなの?」「脳がダメなのに?」
と、とたんに批難されてしまう。

もちろん、ほのさんなりの表現が、
医学的根拠に基づいていないし、
一度会っただけではわかりにくいこともあるし、
現に、かあさんだって、ほのさんの母親とならなければ、
例えば遷延性意識障害の方が、ご家族と心のやりとりをしながら暮らしていると聞いても、
批難はしないまでも、俄かには信じられないだろうし、
そう思うことで、ご家族が心慰められるのだろう、
なんて思っていたかもしれないのだ。

ことあるごとに、ほのさんの様子や、
私たち家族の生活について、
そういった批難を受けるたび、悲しい思いをしつつも、
そのほのさんなりの表現方法や、彼女の生きる意志なんてものを、
はい、これがそうですと、
手にとって見せることもできないし、
誰にでも伝わるように説明できるわけでもなく、
なんとも言い難い思いをしてきた。

ウソでも、なんでもないのに。

ほのさんの、私たち家族の、
真実なのに。




だが、いまいちどよく考えてみる。

意識がなく、意思表示ができないと「されている」人の、
日頃、家族が汲み取っているもの、
心を通じ合わせている方法を、
みんなに説明する必要があるだろうか、と。


それを、誰でもが理解しない限り、
ほのさんを含め、そういった人たちが生きていてはいけない、
などと言うことになるんだろうか。


困ったことに実際、そんな風に言う人もいるのだ。

意思表示もできない人が、
生きている価値などない、
早くラクにさせてあげろ、
医療費ばかりかかって、税金のムダ……と。

一つひとつ、反論するのもどうかと思う言われようもあるのだが、
それでもひたすら生きている人たちに、
その病気や障害の「自己責任論」を押し付けているのだろうと思う。



ほのさんは、産まれる時に、へその緒が切れて、
生まれながらに、脳の機能を失った。
そのほかの臓器は、まったく健康。

へその緒が胎盤からもげてしまった例は、
世界でも非常に珍しいという。

原因はわからない。

母親にも、父親にも、もちろん本人にも、
原因は、ない、という。

そう、ただの確率の問題。


もし仮に、誰かの体のどこかに何かの原因があったとしても、
その原因がある体に生まれたことは、
それもまた、確率の問題。

誰でもその可能性があるのだ。

何かの罰でもなければ、バチが当たったのでもない。

それなのに、
あたかもその責任が本人や家族にあるかのように言われる。

本人は、与えられたいのちを精一杯生き、
とうさんとかあさんは、我が子のいのちを精一杯育む。

ほんとうに、あたりまえのことだ。

それなのに、みんなと同じように生きていけない人を差別して、
できないことを批難して、
一体何のためになる?

この世の中に、誰の頼りにもならず、
純粋に自分の力だけで生きている人が
本当に存在するのだろうか?

誰かを排除しようとすることは、
いずれ、自分が排除されるかもしれないということだし、
誰かが住みにくい社会は、
自分も住みにくい社会だとは思わないだろうか?


「遷延性意識障害」も、「脳死」も、「障害」も、
どの呼び名も、
その病態を現すためのことばであり、分類であり、
どれも全部、
実は、自分とおんなじ人間のことだ。

カテゴリーや病名や、その病気の部位などが、
その病気はかわいそうだ、
こっちの人はそれじゃあ生きててもしょうがない、
などと同情されたり、生きる権利を否定されたり、
人々の勝手な判断に用いられるのはおかしいことだ。

そもそも、自分以外のいのちについて、
とやかく言える人って、
どんな人なの。
そんなエライ人がどこにいるの。

生きている意味とか、
人生が辛くて素晴らしいとか、
それは自分のいのちを精一杯生きていて、
一生懸命毎日を過ごしている人が、
自分のいのちに照らして考えることであって、
ちょっと垣間見たくらいの誰かをとっ捕まえて、
高みから判断するようなことじゃないと思う。

自分の価値観で、
人のいのちの重みを測ろうとしても無駄だ。


この世にいのちを授かって、
縮こまって日陰で生きていかなくちゃいけない人なんていないはず。

いのちを授かった以上、
辛くても生きていかなくてはならない、
それが人間の使命なのだから。



少し、話がそれた。



先日、札幌市の「重症心身障がい児者の在宅支援に取り組む会」と
「札幌地区重症心身障害児者を守る会」が、

「重症心身障害児・者の在宅生活の改善を求める要請書」と署名をたずさえて
国会と厚生労働省に訴えに行かれたそうだ。

要請の内容は、
訪問看護の充実、相談体制の充実、療育の充実、
移動支援事業の拡充、短期入所施設の拡充などだ。

それぞれに該当する担当部署から回答というか返事というか……
が、その場のやりとりの中であったようだが、

訪問看護時間数と回数を増やしてほしい、という要望に対しては、

「別に制限などしていない」
ということだったらしい。

ほのさんのように人工呼吸器をつけていると、
2ヶ所の訪問看護ステーションを利用できたり、
長時間訪問や、状態によっては毎日の訪問が可能だったりするのだが、
実際にそれと同様の訪問が必要な状態でも、
病名などが該当しないと、利用できない場合などもあり、
困っている子どももたくさんいるというのに。

お金を自費で出せば、(制度利用でなければ)
利用できますよ、ということなのだろう……。

結局、国は、在宅小児の実態を、
その数さえも調査していないためにきちんと把握していないのだ。

国は憲法で生きる権利を保障しているというのに、
その具体的な制度を作ることはおろか、
実態を把握することすら怠っているといのは、
一体どういうことなんだと思う。

いま、日本にはたくさんの問題が山積している。
まったなしで解決しなければならないことも、震災の影響などであるだろうが、
問題というのは基本的にどれもみんなきちんと着手していかなくてはならないもので、
どっちのが重要とか、優先とか、比べるもんでもないと思う。
そしてコストについて論じることはその問題の本質からそれがちだ。



かあさんが、在宅生活を送る重症小児の問題について言うのは、
たまたまウチノコが該当者であるからであって、
そのことを今一番に優先してもらわないと困る、と言っているのではない。

困ってる人が、困ってる状況の中で、
自ら声をあげていかなくてはならない状況というのは、
ホントはどうなの、
ホントに生きる権利って保障されてるの、
と思うけど。

この世の中の人は、きっと多かれ少なかれ、
その内容に違いはあれども、
問題を抱えながら生きていて、
その人にとってはその問題がイチバン辛いわけだ。

それぞれの人が自分の問題と向き合って真剣に考えれば、
他人の抱えている問題についてとやかく言ったり、
差別するようなことは言えないと思うし、
自分の問題が、また違う別の問題と繋がっていたりして、
あるいは、全然考えてもみなかったようなところに解決の糸口があったりして、
結構、この世の中も捨てたもんじゃないのかもなんて思ったりする。

一人ひとりが真剣に
「幸せになりたい」と願えばいいのに、
「みんなが幸せになればいいのに」
と願えばいいのに。




障害者と呼ばれる人と、健常者と呼ばれる人と、
その間に境界線なんてない。

境界線がないどころか、
同じ人間で、同じところで生きているのだ。

そう思えないのなら、
思えない、思いたくない「なにか」が、
自分の中にあるのだと思う。

その「なにか」から逃げたり、
それを、人に向けたりしても、
何の意味もない。

誰かが、痛いだけだ。




本当は、大切なことがわかっていれば、
呼び名なんてどうでもいいはず。




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by honohono1017 | 2011-11-25 14:40 | normalization
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