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ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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「脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会」報告

先日、2月3日、衆議院第一議員会館にて行われた、
「第3回“脳死”臓器移植について考える市民と議員の勉強会」
の報告です。

当日は、私の講演と、
*報告:田中智彦さん(東京医科歯科大学教養部准教授)
【「長期脳死」への理解 医学教育の現場から】
がありました。

当日は、以下9名の衆議院議員が出席されていました。
阿部知子(衆・社民)、松岡広隆(衆・民主)、山崎摩耶(衆・民主)、
中屋大介(衆・民主)、斎藤進(衆・民主)、北神圭朗(衆・民主)、
大島九州男(参・民主)、川田龍平(参・みんな)、白眞勲(参・民主)

詳しくは、主催者の、
「臓器移植法を問い直す市民団体」のホームページをご覧ください。
⇒ コチラ


45分の私の講演の内容を要約したものを載せたいと思います。

市民ネットワークのホームページに掲載して頂いたものと同じです。
少ない分量で指定されたため、大まかな内容になっています。
当日は、ほのさんとの暮らしや、彼女の成長がわかるようなパワーポイント、
そして、もちろん、ほのさんの声も録音して言って、
参加された方々に聞いていただきました。

以下。

『「長期脳死」と呼ばれた子の母として思うこと 「どんないのち」も等しく輝ける社会を!』
 
 
西村理佐と申します。帆花の母でございます。
今の世の中は、「生きること」、「死ぬこと」「いのち」という大切なことを問わず、
すぐに「臓器をどうするか」という話になっている。薄気味悪い気がします。
ただ「生きること」を望んでいるこどもたちのいのちが否定されるばかりか、
支援の少ない生活の現状を伝えたくてやって参りました。
まず、皆様に帆花の声を聞いていただきたいと思います。
(帆花と私の会話……)

≪帆花の誕生、そして辛い宣告≫
帆花は、分娩直前にへその緒の中の動脈断裂により、新生児重症仮死で生まれました。
そして生後2週間で、「脳波は平たん、脳幹部も含め機能喪失、今後目覚めることはない」
との宣告を受けました。私は帆花が生まれるまで、
まるで眠り姫の様に生きるこどもがいることを知りませんでした。
しかし脳の機能が失われても元気に生きて、おうちで暮らしている子が大勢いるという事実を、
まず知っていただきたいと思います。

生後2週間で受けた宣告は辛いものでした。先生の宣告を受けた時、
「それは脳死ですか」と質問すると、先生は「子どもの場合は脳死とは呼ばないですよ」と言い、
「脳の機能を失っているけれども今後元気に成長していきますよ」と話されました。
その意味は全く理解できず、私たちは脳死に近い状態なんだと理解しました。
脳死に近い我が子がどういう存在なのか、生きているのか、
生きているけれども死に向かっているのか、我が子なのに得体の知れない恐怖を覚えたわけです。

≪一人歩きした「脳死」ということば≫
当時、0歳から臓器提供が可能だったなら、先生に
「ほのかちゃんの臓器を提供すれば助かるいのちがある」と言われていたら、
私たちはそうしますと言ってしまったのではないかと思います。
それは「人助け」のためとか、「体の一部分が生きていてほしい」という理由ではなく、
その時の私の苦悩……我が子をどう受け止めればいいのかわからないという苦悩から
逃げ出して決着をつけたいという気持ちから提供してしまったのではないかと考えます。
しかし、今思えば、この時の苦悩は、「脳死」という言葉が存在しなかったら、
少し違ったのではないかと感じます。
当時の法律では帆花の臓器を差し出すということはなかったし、
とてもいい主治医で「ほのかちゃんには生きる意志を感じる」と言って下さったのです。
しかし私たちの方がどう受け取っていいかわからず、
夫と私は呼吸器をはずして下さいと申し出なくてはいけないのではないかと真剣に悩みました。
「脳死」という言葉が一人歩きして、私たち夫婦を苦しめたことは確かで、
「脳死」という言葉が大切ないのちをどう受け止めるかに
悪い影響を与えているのではないかと感じます。

≪ひとすじのひかり、「生きる意志」≫
私を苦しめたものは、それだけではありません。
私は、赤ちゃんは元気に産まれてくるものだと思っていたし、
障害は自分とは無縁のものだと思っていたのだと思います。
障害を持つ子の親も、幸せに子育てができるとは当時の私には想像がつかず、
いろんな症状が出て鬱と診断されました。
鬱との闘いもとても苦しいものでしたが、その私を救い出してくれたのは、
他ならぬ帆花のいのちでした。
機械などがたくさんついて、元気な赤ちゃんとは見かけは違うものの、
無邪気で明るい雰囲気を感じ、声を出すことも動くこともないが、
「かあさん!」と言っているように感じました。「この子は自分のいのちを悲しんではいない」、これが、彼女の「生きる意志だ」と感じるようになったのです。
帆花のいのちによって私は徐々に母親にしてもらいました。
そうしてだんだん、物言わぬ子なのに、体調や機嫌はどうなのか、
何をしてほしいかが伝わるようになっていきました。
そして生後9カ月のときに、たくさんの苦難を乗り越えてなんとか、自宅に連れて帰りました。

≪超重症児在宅生活の厳しい現状≫
自宅で育てることは簡単なことではありませんでした。
まず障害者手帳が必要、役所に問い合わせると手帳は原則3歳以上と断られる。
何とか交付してもらい、サービスを受けることになったが、
「お母さんがいるのに何でヘルパーがいるのか」と言われ、
やっとヘルパー派遣が決まると今度は引き受けてくれる事業所がない。
私が、過労で倒れたりもする。役所に申し出ても門前払いを食う、
というのが支援の必要なこどもたちが置かれている、現在の日本の状況です。

平成21年度全国訪問看護師事業協会のアンケートによると、
利用したくても利用できないサービスについて調査したところ、
ショートステイ、ホームヘルプ、移動支援、・・などがあがっています。
「人工呼吸器がついているから」、あるいは「医療的ケアが必要だから」という理由から、
希望しても利用できないのが現状です。
これらは自立支援法で受けられるサービスですが、
それでは医療保険における訪問看護についてはどうかというと、
帆花のような重症心身障害児への訪問看護を実施しているステーションはわずかに21%。
また、サービスを利用したいと思っても情報を得るために母親が全てをやらなくてはならず、
介護制度のケアマネージャーのようなコーディネーターも、今すぐに必要だと思います。
経済的負担も大きく、補助にも地域格差があり、
衛生医療材料の支給も病院格差があるのが現状です。
どこに、誰に相談していいか窓口もなく、
子どもたちのこういう状況をぜひ国の責任で早急に調査していただきたいと思います。
しかし、このように厳しい状況の中にあっても、
家族揃って自宅で暮らすことは、この上ない喜びでした。

≪大切なのは「いのち」じゃないの?≫
そんな中で、一昨年の改正臓器移植法の審議があり、取材も受けました。
臓器がどうということではなく「大切なのはいのちだ!」と言いたかったのです。
いのちを助けようという議論なのに、私たち家族のように、
脅かされていると感じる家族がいるというのはおかしなことです。
帆花のように眠ったままでも「生きいきと暮らしているこどもがいるんだ」と言っても、
「法的脳死判定を受けていないから関係ないでしょ」と言われる。
大切ないのちの議論を国民全体でしよう、というときに、大の大人の言うことだろうかと、
ありえないことだと憤りを感じました。
帆花は周産期医療の発達の中で助けられたいのちです。
脳の機能が失われ「回復」の見込みはないが「ありのまま」生きている。
生きているいのちを「どう支援するか」を考えず、
「臓器を提供する方法がある」と言われてしまうのなら、
何のために救うのか、一体、誰のいのちなのか、疑問に思います。

≪だって、あたし、いきてるんだもん。≫
大変な生活であっても、私たち家族は、普通のご家庭と同じように
お出かけもするし旅行もします。ありふれた幸せが、
私たちの大きな喜びになっていることもお伝えしたい。
「歯も生えるし、爪も伸びるし、髪も伸びる」などと報道されましたが、
私たちにしてみればそんなことは「生きているんだから当たり前だ」と思いました。
リーク音や表情の変化などで、何をしてほしいのか意思表示もするようになっています。
「医療」でははかりしれない成長を、帆花は見せてくれているのです。
今は大きくなって、ベビーバスでは小さくビニールプールに湯を張って入浴しています。
ディズニーランドに行ってお泊りもしたし、買い物もするし、
しゃぶしゃぶ屋さんにも行ったりしました。
もちろん食べることはできないが、いろんな体験をさせたい、それが親の願いです。
このような生活で在宅して2年と7カ月になりましたが、急変も2度ほどありました
。緊急の事態には両親が対応しなければなりません。判断を誤ったり、
タイミングが遅かったりすると、死に至ります。
しかし、それを私は「看護」や「介護」とは考えておらず、
私の「子育て」の一部だと思っています。 

≪こどものいのちは「誰のもの」? 法律や医療が「いのちのゆくえ」を決めるの?≫
今となっては恐るるに足らないとわかりますが、帆花が生まれた当時、
私が襲われた得体の知れない恐怖……それは「脳の機能を失ったこどもと
心を通わせて育むことができるだろうか」という不安だったと思います。
不安な時期には、いのちの幕引きを真剣に悩み、いのちは親の手の中にあると考えました。
今となっては、それは私のいのちに対する「驕り」であったと考えています。
急変のときの判断や処置も私たち両親が一番慣れています。
私たちが特別ではなく、他のご家族も同じです。
そういう意味では、帆花のいのちは、私の手に委ねられているのかもしれない。
けれども、帆花はほのかのいのちを生きており、
助けることはできたとしても、たとえ親であっても、
引き延ばしてやることはできないんだと思い知っています。
最近、人工呼吸器をつけた子への医療を過剰医療という風潮がありますが、
それは医療の「驕り」ではないでしょうか。
過剰かどうかは医療者が決めることではない。
回復しないいのちであっても、そのまま生きる権利があるし、
医療は必ずしも「治す」とか「回復させる」ことだけが役割でなく、
帆花のように回復しないいのちを「見守る医療」も同じように重要だと思います。

先日、医学生に講演をした時のことです。
医学部6年生の女子学生が「つい先日NICUに実習に行き、
ほのかちゃんのような赤ちゃんや超未熟児を見た。
その子たちを助けたとしても脳性まひの子を増やすだけではないかと思った。
医者になる前にお話を聞いてよかった」と言ってくれました。
私はかなりショックを受けましたが、学生がそう感じる社会になってきていると思うし、
それが当たり前になっていくのは怖ろしいことだと思います。
帆花にはたくさんのお友達がいます。
呼吸器をつけていたり違う病気であったり、元気な子も・・。
いろんな子どもたちがいます。私が親になって変わったことは、
「親として子どもに誇れる世にしていこう」という責任を感じるようになったことです。
現在は、残念ながら、一生懸命生きるいのちに対して、申し訳のない世の中だと思います。
誰かが脅かされるような世の中は、誰にとってもよい社会ではない。
安心して子供を産めないし、もし障害を持った子が生まれたら、
自信を持って育てられない社会だと思います。

≪ただ、「そこに在る」ということ≫
帆花が死んでいるか生きているかは間違えようがありません。
帆花の手を取って下さった方は一様に、「あったかい」、「柔らかい」と言ってくれます。
それ自体が生きているということであり、誰もがそれを直感的に感じることだと思います。
障害や病気を持って生きるということを考えることは、
ひょっとしたら面倒くさいことかもしれないけれど、目をそらすことはできません。
改正臓器移植法が施行されて、「臓器提供は善意の行い」と声高に言われます。
単純にそう言いきってしまうのなら、「提供しない人は悪意か」ということにもなりかねません。
どんな人のいのちも等しく大切なんだ、
という大切なスタート地点を通っていない議論になっていると感じます。
この問題に関して、「賛成派」、「反対派」、「その他大勢」というように捉えるのではなく、
いのちそのものをどう考え、大切にするのか、
「生きること」「死ぬこと」を大人一人ひとりが真剣に考え、
子どもたちに伝えていかねばなりません。
いろんな「いのち」があり、
「そこに在ること」それ自体が、大切にされる世であってほしいと心から願います。



また後日、当日の感想などを書きたいと思います。


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by honohono1017 | 2011-02-23 21:25 | News/Report
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