ほのさんのバラ色在宅生活 |
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「やっぱり」。
こんな風な流れになっていくであろうことは、 あのときから、予想はしていた。 民主党は20日、 人工呼吸器などの生命維持装置が装着されたまま 「臨床的脳死」と診断された患者に限り、 特別な脳死判定を経た上で 医師に延命治療の中止を認めることの立法化に向け、 党内での検討を始めたという。 2010年5月20日 共同通信 臓器移植に関する法律で、 「脳死を人の死」とすることは、 全てのはじまりにすぎなかったのだ、 やっぱり、 だ。 桜井充・党参院政審会長が「試案」として骨子を作成、 国会内で同日開かれた党政策研究会で示したという。 この桜井充氏、医師でもあり、 尊厳死議連の現会長でもある。 試案によると…… 医師が「臨床的脳死」と診断した後、 患者や家族の意向を確認。 延命治療の中止を求める場合、臓器移植の際の法的脳死判定に近い形で 「特別脳死判定」(仮称)を実施する。 これで「脳死」と判定された場合、 医師が患者への医療行為を中止し、 心停止に至った時点で死亡宣告を行うとしている。 者本人が事前に治療継続を望んでいた場合は、 家族が希望しても延命中止はできず、 逆に本人が中止を希望していた場合でも、 家族が治療継続を望めば中止できない。本 人の意思が不明で家族が存在しない場合も中止できない。 ということらしいのだが。 まず。 臓器移植法が改正されることによって、 「脳死を人の死」とされた、 ということを大前提にしていること。 いいかげんな国会での議論で、 結局。改正は決まってしまったが、 A案支持者は、きちんとした脳死診断を行った、 長期脳死のこどもが存在することも、 事実ををまげて否定し続けた。 国民に きちんとした情報を公開することなく、 強引に改正が決められた後も、 小児の脳死判定基準についても、 科学的根拠もなく、 判定の間隔を長く取るというということだけで 済まそうとしている。 そんないい加減づくしの中で、 本当に「脳死は人の死」ということについて 全国民のコンセンサスを得ているとは言いがたい。 次に。 そのような状態の中で。 そもそも。 「脳死」という概念が必要になったのは、 フレッシュな臓器でなくては使い物にならないが、 心停止以前に取り出してしまっては、 「殺人罪」に問われる、という状況の中で、 人工呼吸器の開発に伴ってうまれた「不可逆的昏睡」状態を、 新たな死の基準として「死」という言葉をつけて 「脳死」とした、 という経緯もすっかりどこかに捨て去り、 その「脳死」という考え方を、 臓器移植とは全く関係のない場面においても持ち出し、 「特別脳死判定」という名の脳死判定を行って、 場合によっては、その後の医療行為を中止できるように 定める必要があるというのだ。 「脳死が人の死である」ということを、 たとえ、臓器移植に関る法律の中であったとしても、 そこに明文化されていないとしても、 認めてしまえば、 「脳死は人の死」であるという国民的理解があり……とされ、 その範囲はどんどん拡大されていくだろう事は、 きちんとした事実を自分の頭で考えれば、 昨年の国会の議論の最中から、 危惧してきたことだった。 臓器提供を拒否できるのだから関係ないでしょ…… ではすまされない、と言った所以である。 臓器移植とは関係ない場面に置いて、 「脳死診断」を行わなくてはならない理由は、 何なのか。 これまで行われてきた 「臨床的脳死診断」と、何が違うのか。 (そもそも、これまで行われてきた「臨床的脳死診断」だって、 臓器移植を希望していない患者にしてみれば、 臨床的も、法的もよくわからないわけで、 もし、臓器移植が存在していなくて、 「脳死」という概念そのものがなければ、 ほのさんも受けた「臨床的脳死診断」は、 「脳の機能が失われています」という、 単なる、「病状説明」でいいわけだ。) 延命装置をつけてまで、 回復の見込みがないの患者の、 医療費削減か。 回復できる患者に対して行うものが、 「日本の医療である」という、取り決めか。 生命維持装置をつけてまで、生きていたくはない…… という患者本人、 あるいは、 そのような家族を看病するのは辛い…… という患者家族を救うためか。 また、そのような患者家族の感情を汲み取った医師の、 苦悩を合法的に取り去るためか。 これら、全ての、ためか。 おそらく、桜井氏に言わせれば、 患者本人の意思は尊重されるし、 患者本人が「特別脳死診断」後の医療行為中止を希望しても、 家族の拒否があれば 中止できないのだから、 問題ない、とおっしゃるだろう。 それで、本当に問題ないのですか。 本当に、問題ない、と思っているのですか。 いのちのあり方を、 法律で決めるということがどういうことなのか、 仮にも医師であるならば、思うことはないのだろうか。 いのちの「尊厳」などというが、 その「尊厳」は、 自分のいのちの行方についてすら、 どうしようもできない人間が、 法律などで決めてしまえるものなのか。 臓器移植のもとでは「脳死=人の死」である、となったのに、 臨床的脳死診断を行ったあとの、 その後の治療方針を決めていく医療現場の違和感を心配するのなら、 まず、他に心配することは、ないのですか。 臓器提供を拒否した患者に対して、 きちんと必要な医療が実際に行われるような配慮、 現に、脳死に近い状態で生きている人たちの権利と、 生活が守られていくような世の中をつくること、 具体的な支援を増やしていくこと…… そっちが、 先じゃ、 ないんですか。 それを先にやらないで、 なにをやろうとしたって、 「拒否できるんだから守られている」とは、 言えないはずだ。 生命維持装置などというけれど、 ほのさんにとって人工呼吸器は、 かあさんにとっての、 「めがね」と似たようなものだ。 人工呼吸器とともに、 豊かな人生を送っているひとたちは、 たくさんいる。 そのひとたちが生きやすい世の中であるよう、 医師や、法律などを作る国会議員たちが、 きちんと動いて、 そういった世の中が実現されていれば、 その後、このような法律が決められても、 何を危惧する必要もない。 かあさんは、 この桜井氏の動きを知って、 ほのさんに対して、 ほんとうに、ほんとうに、 申し訳なく、 打ちのめされた気持ちがしている。 こんなことを考える人が医師で、 日本をつくる、国会議員で、 そんな世の中にしてしまっている責任が、 かあさんにもあって。 未来あるほのさんに、 そんな世の中を残せない。 元気に過ごす「大多数」から漏れたひとたちを 平気で切り捨てる世の中に、 心が痛まないのだろうか。 「拒否できるから問題ない」と、 切捨てではないことを主張するのなら、 積極的に「守る」施策をまず、打ち出すべきだ。 そして。 「人工呼吸器をつけてまで生きたくない」 「そんな家族を看ていられない」 という切実な思いも、 ある。 それも、 事実。 かあさんだって、 ほのさんの生まれたときに、 幾度となく、思ったことだ。 しかし。 それでも、 生きる。 共に、 生きる。 いのちのありのままを受け入れ、 ありのまま、 生きる。 それが、 いのちの尊厳なのではないか、 と、 今は思っている。 そうして、 やるせない思いに、 辛い体験にあい、 揺れながら生きていくのが、 人なのではないか。 そうした幅が、 残された世の中が、 人の歩む道なのではないか。 読んでくれてありがとう。 ポチッとな↓ も、お願い! にほんブログ村 にほんブログ村 このブログ「ほのさんのバラ色在宅生活」が 本になりました♪ 「ほのさんのいのちを知って」 絶賛発売中☆ 紀伊国屋書店 TSUTAYA ONLINE eb!STORE アマゾンでも入荷したみたい。送料無料ですので、ぜひ。 ↓ ↓ ↓ ↓ アマゾンで「ほの本」購入
by honohono1017
| 2010-05-26 16:24
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