ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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ただちに、社会にインクルージョン!

ちょうど、1年前のいまごろ、
我が家では、ほのさんに夜のヘルパーさんを頼みたくて、
役所とあれこれ、やりとりをしていた。

ひっかかっていたのは、
夜のヘルパーさんを長時間頼むために、
「重度訪問介護」というものを申請したかったのだが。

年齢が該当しない、ということで
申請できない、という事態になり。

昨年の日記はコチラ


役所にも、夜間のヘルパーの必要性を理解頂き、
「重度訪問介護」のかわりに、
「身体介護」の時間数を増やしてもらうという代替案で
対応してもらった。

しかし、実際に、
ほのさんの夜間ヘルパーを派遣してもらえる事業所が見つかるまで、
それから約5ヶ月を要した……。

現在、週2回、午前0時から4時半まで入っていただき、
我が家の生活の「質」は、
ぐーんと、上がった。

かあさんが、入院するなどという騒動も、無くなった。


では、ほのさんのような「超重症児」をとりまく環境は、
何かが、変わっただろうか……。

新政権になり、
2013年には、現在の「障害者自立支援法」に代わる、
新しい法律が成立するはず……ということらしいが。



現在のところ、障害児に関する、
居宅生活支援事業(ヘルパーなど)は、原則として障害者自立支援法、
施設支援は、児童福祉法に定められているらしい。

また、居宅生活支援は、市町村が、
施設支援は都道府県がサービスを実施している。

このような状態の中で、
あらゆる障害のある、こどもから、障害者まで、
一貫してサービスを提供できるように、
再編整備する必要があることを考えると、
本当に、難しい話だと思う。



さらに、ほのさんのように人工呼吸器をつけており、
医療的ケアの必要なこどもたちは、
現在、児童福祉法で定められている、「児童居宅支援」などは、
ほとんど利用できない状況である。

また、ほのさんが生まれてまもなく退院準備をしていた頃、
「赤ちゃんで、親がいるのになぜサービスが必要か」
という意見に阻まれた。

これらのことを考えると、
「すべての障害」という捉えかたで、
「あらゆる年齢」の人を、
もれなく支援できる法律がありえるのか、疑問だ。


乳幼児や、意思表示が難しいこどもの場合、
親が、「こどもの最善の利益」を考慮して代諾する、
とされているが、
ほのさんのように、生まれてすぐに、
重い障害を負ってしまった場合、
親は、その状況を理解することもままならないのに、
果たして「こどもの最善の利益」なるものを、
きちんと考えることなどできるだろうか?

親の了承だけで、
0歳から、臓器提供が可能になる今後、
「こどもの最善の利益」というものを、
不確かな「倫理上」、親に託するのではなく、
こどもたちが必要な医療を受け、
「こどもの権利」きちんと定めておく必要があるだろう。


また、障害のある「こども」を支援するためには、
これまで定められてきたような、
「本人の自立」に対する支援だけでは、不足である。

障害のあるなしに限らず、
こどもを育てているのは、両親であり、
周りにいる大人たちである。

昨年、重度訪問介護の申請で、役所とやりとりをしていたときに、
「買い物に行けない」という話をすると、
「本人のオムツやミルクに限り、生活支援を認める」
と、認定された。

結局、本人のミルクやオムツだけを買いに行ってもらうために、
ヘルパーさんにお願いすることも実際は無く、
「生活支援」は、ほぼ使わずじまい。

こどもだから、普通、買い物には行かない。
親がいるのだから、必要ない。
そういう判断だけでは、現実の生活に即した、
こどもへの支援は不十分だろう。

しかし、幸い最近では、ネットスーパーや宅配システムが充実しており、
また、ボランティアで買い物をしてきてくださる方も現れ、
公的なサービスだけではなく、
まず第一に、利用可能な手段をなるべく探り、
インフォーマルな資源もフルに活用した上で、
サービスを申請、利用する、
という、利用する側の、きちんとした責任も同時に求められるだろう。



また、教育界では、「インクルージョン(包括教育」の推進が
うたわれているようだ。
障害がある、無い、の二分法での分離型教育ではなく、
相違が基準であると捉え、
個々に持っている特別な教育的ニーズに対応し、
統合型環境で教育を進めていく……
ということらしい、のだが。

ほのさんを地域で育てていて感じることは、
「障害のある」と「障害のない」をインクルージョンしよう!
というときの、
「障害のある」というほうにも、
ほのさんが、入っていない、ということだ。

ネックはやはり、
「医療的ケア」なのか……。



「人工呼吸器+医療的ケア」という条件の「こども」たちを、

ただちに、社会にインクルージョン!

これが、心からの願いだ。


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by honohono1017 | 2010-05-11 18:07 | normalization

「選択肢」としての臓器提供、という名の誘導。

今年7月全面施行される改正臓器移植法。

それに伴い、小児の臓器提供が可能となるが、
小児(6歳未満)の脳死判定基準案が、
厚生労働省臓器移植委員会にて4月5日、公表された。

しかし、医療現場では、蘇生力の高い小児の、
脳死判定は困難との声が多く、
実施を3ヶ月後に控えて戸惑いが消えない。

これまで、小児の臓器摘出が可能な約300の臓器提供施設に追加される、
小児専門病院の28施設が公表されたほか、
今回、小児脳死判定基準案も公表され、
小児脳死移植に向けた準備が進む。
だが、医療現場からは小児の脳死判定や
臓器摘出への反発や導入に消極的な意見も出ている。

(毎日新聞4月6日)



最近では、ほとんど報道されることもない、
臓器移植法改正のこと。

改正法全面施行を目前に控え、
やはり、胸騒ぎがする。

マスコミが、「長期脳死」と呼ばれたこどもたちを、
この施行を前に、どのように取り上げるのか、
取り上げないのか。

今年1月出版した、
「ほのさんのいのちを知って
~長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活~」
の中には、
昨年、この法律改正について国会での議論中に
我が家が考えていたことを、リアルに綴った。

だが、施行が目前に迫った今、
かあさんの思いもずいぶんと変化している。

端的に言えば、
「脳死」は死の基準ではなく、
脳「死」ではなく、「不可逆的昏睡」であって、
臓器移植をするときの概念であるということ。

ほのさんは、
「長期脳死」でもなんでもなく、
この法律とは全く関係のない子であるということ。



今日、「日本臓器移植ネットワーク」の作成した、
「主治医にしかできないこと
~選択肢の提示としての臓器提供~」
というドラマを見た。
(↓ ↓ みなさん、ぜひ見てください)
詳しくはこちら


このドラマは、
家族からの臓器提供の申し出のあった場合、
病院側から臓器提供を「選択肢」として説明をした場合に比べて、
臓器提供の時期としては
遅すぎる場合が多い、
というセンセーショナルな統計からはじまる。

日本臓器移植ネットワークが作成したものであるから
当然なのだろうが、
あくまで、「臓器提供」をすることが
大前提な話であるところが、
普通に見ていたらわからないところが、
とても恐ろしい。



これまで、ほのさんのいのちについて色々なところで
お話しするたびに、
あるいはこれまでの医療体験を通して常に思うことは、
医療者にとって、
回復する見込みのない患者、
あるいは障害が残る患者を、
救うことがいいことなのかどうか、
あるいは救うことに意味があるのだろうか、
と思っている人が非常に多いということ。

そのような考えは、
医療従事者を目指す若い方たちの中にも
あると知って、少しショックだった。

確かに、かあさんだって、
「重症な障害が残ることは確実」
と宣告されたときに、
この子は幸せになれるだろうか……
と、恐ろしく不安だった。

この世の中は、健常であることが、
「当たり前」であり「普通」である社会なのだろう。

そして、日本の医療とは、
「治すこと」なのだ。

ほのさんは、これ以上の回復が見込めない。

だが、常に医療が必要である。

でも、ほのさんのような子を「支える」医療は手厚くなく、
「支える」とか、「見守る」などという概念そのものが、
日本の医療には大きく欠けているように思う。



閑話休題。
ドラマの話に戻る。

このドラマは、あくまで
「選択肢」の一つとしての臓器移植という方法を提示する、
そして、「患者の意思を尊重する」ということを
言っている。

そして、その「選択肢」を提示できるのは、
患者の意思を尊重できるのは、
主治医しかいない、と言い切っている。


「選択肢の提示」……。

そもそも、日本の医療という環境は、
「選択肢」を提示することが得意な世界ではない。

一昔前は、医者は「先生」さまさまで、
絶対であった。

患者は病気に対する知識もなく、
先生の言うことを聞くことが「良い方法」であるとし、
それはある程度、医者と患者の間に信頼関係が
あったからだろう。

そして、社会は変わり、
患者は自分の病気に対する知識を得、
患者自身が治療法を選ぶ時代となった。

一方で、医療訴訟が絶えない。

医療者と患者の間に信頼関係を作ることは非常に難しく、
医療者の考えと、患者の思いが、
すれ違うことも多い。

その中に置いて、
「看取り」が近いという状況の患者を前に、
「臓器提供」という重大な方法を
「選択肢」のひとつとして提示することが、
そもそも医者にできるのだろうか。

「死」が近い患者を目の前にした家族は、
現状を理解することでも精一杯である。

救急医が全力を尽くすことが大前提というが、
救急医が全力を尽くし、
家族に寄り添おうと努力すればするほど、
その医者から「臓器提供」という選択肢が語られたのなら、
家族にしてみれば、
「これだけ良くやってくれた先生が言うのだし、
誰かの役に立てるのならば……」と
気持ちは流されていく。

ほのさんは、生後2週間目ごろに、
「脳死に近い状態」と宣告されたあの日、
主治医から「臓器提供の方法もある」という「選択肢」を与えられていたら、
かあさんは、提供したかもしれないと思っている。

良いか悪いかは別として、
現に、「臓器提供」は「選択肢」の一つであることは
明らかな世の中である。

もし、医者がその「選択肢」を家族に説明するのであれば、
臓器提供へ誘導するのではなく、
あらゆる「選択肢」を平等に説明する必要が
あるのではないだろうか?

突然の事故や病気で、
積極的治療の手が尽くされ、
それ以上回復の見込みがないということを理解した家族は、
このドラマのように、
では、「人の役に立てるのなら」と、
簡単に臓器提供を選ぶものだろうか。

「治す」こと「回復する」ことを医療とする医療者が、
悲しいかな、「脳死」を「死」としてしまうとしても、
家族にとってはたった、何時間だとしても、
患者が目の前で、あたたかく、そこに存在していてくれること、
そして、徐々に「死」を迎えていくこと、
そのような最期を迎える「選択肢」は、
必ず存在するはずだ。

「脳死」を死として臓器提供を選ぶ選択肢と、
積極的治療はなく回復は見込めなくとも、
患者本人の「いのち」が尽きるのを見守る「医療」という選択肢は、
医療者の中に存在しなければ、
ただの誘導となってしまう。


だが、そもそも、患者の切羽詰った一大事に、
家族にとっても、「今後」について決定しなければならないという極限状態に、
医者がはじめて選択肢を説明しなければならないということ、、
それ自体が、
国民一人ひとりに、
正しい臓器移植、提供に関する知識が無いこと、
きちんと理解されていないということを
明らかにしているのではないか。



ドラマの最期に、
「選択肢としての臓器提供を積極的にご提示いただいている、
市立札幌病院の救命救急センター医師」のインタビューがある。

その医師は自分が積極的に取り組んできたことを
「良かった」と話し、
積極的にこの「オプション」を提示していきましょう、
と呼びかける。

自分は「救命医」だからこそ、この選択肢を提示することができる、
と言うのだが、
日本の医療の中で、おそらく最も
「救うこと」「助けること」を仕事とする医者が、
本当に、この「選択肢」というものについて、
公平に示すことができるのだろうか疑問だ。




医療は万能ではない。

治療することができる病気ばかりではない。

病気は治療することができるかもしれないが、
医者は「いのち」を決めることはできない。

回復することがなくとも、
いずれその心臓が止まることになっても、
その「いのち」が、
「誰かのために差し出されるべきもの」だという考えが、
救急医療の場面において
当たり前になることを、「良いこと」とされることを
心から危惧する。




この、日本臓器移植ネットワークのホームページには、
小中学生向けに、
臓器移植のことをわかりやすく書いたページがある。

その中で、
「心臓を動かしているのは、何?」というタイトルで、
脳死と心停止について説明している部分で、

「ただ、人工呼吸器(じんこうこきゅうき)をつけていると、
機械の力で血液をからだじゅうに送ることができるので、
死んでいるはずなのに「からだはあたたかい」
という状態になります。


というくだりがあった。

死んでいるはずなのに


大人でさえ、
「脳死」という状態がどういう状態なのか、
心停止ではなくて、
なぜ臓器移植において「脳死」という状態が
注目されているか、
正しく理解している人が少ないというのに、
こどもに対して、
このような危険な教え方をすることは
避けていただきたい。

この書き方では、
「人工呼吸器をつけいている人」は
「死んでいるはずなのに」
と受け取りかねない。

こどもに説明するのには、
まず大人がきちんと理解しなければならないはずだが。

脳死とも、臓器移植とも無関係の、
「人工呼吸器をつけている」ほのさんの親として、
この表現は、
非常に不快であり、
間違っていると、思う。

臓器移植は、
あくまで一つの「治療法」では、ないのですか。




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by honohono1017 | 2010-04-20 13:43 | normalization

どうも、おかしい。

昨日のニュース。

「拡張型心筋症」の新たな治療法について。

「拡張型心筋症」は、筋肉の働きの弱まる難病で、
これまで、根本的治療は
心臓移植しかないと、されてきた。

ところが。

今月から、国内8つの病院で
「免疫吸着療法」と呼ばれる新治療法の臨床試験が始まるという。

「免疫吸着療法」とは、
患者の血液を、人工透析と同じように、
体外でろ過し、病気悪化の原因とみられるたんぱく質を取り除く。

海外で行われた試験では、
この治療で、心臓の動きが回復し、
2~3分しか歩けなかった患者が、
普通の家事をこなせるようになったり、
社会復帰して働けるようになったケースもあるという。

(NHKニュース)




国内で、心臓の移植が必要な患者の80パーセントが、
この「拡張型心筋症」だという。


これからたくさんの臨床試験が行われて、
どのような患者に有効なのか、
効果をどう高めるか、
まだまだ研究が必要な段階ではあると思うが、
こんな朗報は、ないのではないか。

だが、このニュースが、
とても大きなトピックになっている様子もなく、
「拡張型心筋症」と直接関係の無い人々は、
臓器移植と結びつけて考えることもないのかもしれない。




それにしても。

このニュースをみていてつくづく思ったのだが。

「臓器移植しか方法がない」という、表現。

心臓の専門医や移植医でなくとも、
臓器移植「しか」方法がない、と言う。

ニュースでも、当たり前に。

一体、これは何を意味するのだろうか。


「移植」という大変な治療をしなければならないほど、
重い病気……

「移植」という敷居の高い、
治療法しかない病気……

それとも。

日本での「移植」のハードルの高さを表すのか……

移植しか、
の、
「しか」が、常套句のように用いられる、
裏側の意図、
含み。



もし、この新治療法が確立されれば、
この「しか」は、必ずはずされるべきだが。



「インフォームドコンセント」などという、
聞きなれない外来語が、医療の世界で、
患者の方まで聞こえてきて、
どれくらいたつだろう。

直訳すれば、
「正しい情報を得た(伝えられた)上での合意」を意味する概念。


検査や手術、投薬など、
代替治療、副作用、成功率、予後なども含めて、
患者が十分に説明を受け、
理解したうえで、
その方針に合意する、
ということだ。


「臓器移植しか方法がない」
などという表現が、
なぜ、医者の口から出るのかわからない。

「~しか、ない」は、
その方法を暗に、強制しているように聞こえる。

それを選ばなければ、「ひどい」と
言われているようだ。

患者は、
医者という専門家から、
自分の病気に対して、家族の病気に対して、
あらゆる選択肢の、
平等な情報を与えられるべきだ。



ほのさんが、
「脳波は平坦、萎縮もある。
目も見えない、耳も聞こえない、
今後目覚めることはない」と
宣告されたあの日、
「臓器を提供するしかない」とか、
「それでもお家に連れて帰って育てるしかない」とか、
医師に言われていたら、
今と同じ選択をしていたとしても、
それが、
我が子のために、
親として選択たことと、納得できただろうか。




ほのさんといういのちを授かった以上、
「臓器移植」のことを語るとき、
かあさんは、どうしても
「ほのさんのかあさん」としてのアイデンティティが
真っ先に、飛び出す。

自分のいのちにかえても、
守りたい、我が子。

その気持ちが、かあさんにもあるからこそ、
実際に存在する「臓器移植」という治療法自体、
あるいはそれを望む気持ちは、
否定できない。


だが。

ただひとりの人間として考えるならば、
その人固有の、存在、
人の尊厳を思えば、
人の体から臓器を取り出して、
別の人の中に入れる、というその方法が、
生への当たり前の欲求なのか、
自分自身の生へのエゴなのか、
医学の発展を追い求めすぎた結果なのか、
当然の技術の発達なのか、
よく、わからなくなる。



とにかく、
「臓器移植」が、
ひとつの「治療法」であり、
患者の意思で選択できる、
他の治療法と変わらないものであるなら、
「臓器移植しか方法はありません」という表現は、
どうも、おかしい。




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by honohono1017 | 2010-02-08 18:41 | normalization

287日目。

今日は、久しぶりにこの話題を書くことになってしまった。

22日夕、北海道内の病院で、
20歳代の女性が臓器移植法に基づいて
脳死と判定された。

23日に、臓器の摘出を終えた。

同日から24日にかけて、
各臓器の移植が行われているという。


今回の臓器移植は、
97年10月の施行以来82例目で、
今年7月の改正法成立後、初。

臓器移植は今年2月から途絶えており、
空白期間は、
1例目が出て以降、
最長の286日間…


ここのところ、
臓器移植について、
そもそものところから、勉強しなおしていたところだった。

この記事を見て、何を思うか。
何を思えばいいか。

正直、何か激しい感情が起こったわけではない。

だが、あまりにも色んなことが頭を巡って、
沈黙の音が「キーン」と鳴り響いた。

その中で、
ほのさんの、規則的な「声」が響く。



1968年、「不可逆的昏睡」が着目されて、
「脳死」という名称に改名された。

世の中は、心臓移植のブーム真っ盛り。
動いている心臓を取り出して移植を行えば、
殺人罪に問われかねない。

心臓移植をつつがなく行うためには、
「不可逆的昏睡」を
人の「死」にする必要があったのだ。




今年の夏に、日本での臓器移植法改正の議論の中で、
日本移植学会の理事長が、
「いくら心臓が動き続けても、脳機能は二度と回復せず、必ず心臓も止まる」。
と強調していたことを、鮮明に覚えている。

長期脳死と呼ばれるこどもについて、このように述べているのだが。

このことは、(今さらながら)二つの大きな問題をはらんでいる。

第一に、「脳死=人の死」であることを証明しようとする発言であるはずが、
(脳死状態で)心臓が動き続けていても、
「必ず心臓は止まる(心臓死にいたる)」と言っていること。

心臓死が人の死であることは、
誰もがそうであると受け入れる。

つまり、「心臓が止まる=死ぬ」ということならば、
脳死者は心臓が動いているのであって、
「死んだも同然」といいたいのだろうが、
「死んだも同然」と「死んでいる」のとでは
全く違う。

彼らが「死んだも同然」ということは、
つまりその人は、「生きている」と認めているということだ。

なんだか、あげあしをとっているように思うかもしれないが、
それくらい、無理のある話であって、
よくよく考えれば、トリックだらけなのだ。

もし、移植をするために、
生きた人間にメスを入れて臓器を取り出す…
ということに、あなたは賛成できますか…
と問われたら、人々の回答は違ってくるはずだ。


第二に、人間の臓器の一つである「脳」がダメになると
どうして「死」とみなされるのか、という問題。

脳とは、わたしたちの体の数ある器官の中で、
中心的な統合体、すなわち、
身体の中枢器官であり、
それが破壊されたり不可逆的に機能停止すれば、
身体の有機的統合性は失われる…
という考えが一般的だからだと思われる。

では、本当に
脳は身体の中枢器官であり、
その脳がダメになると、
体の統合性は失われて、
「死」に至るのか…


近年の医学では、
身体の基本的な構成要素である、
各臓器、器官が相互依存性を保ちながら、
それぞれ精神的・肉体的活動や、
体内環境の維持(ホメオスタシス)のために
機能を分担して、全体として統合性を保っている状態を、
「人の生」とし、
こうした統合性が失われた状態をもって
「人の死」とする考えである。

そして、その統合性を保つのに欠かせないのが
「脳」である、というわけだ。

これに対して、次のような指摘がなされている。

第一に、「脳の統合機能の大半は、
実は身体を制御していない」。

これまで、
体温調整、水分や電解質調整、栄養、呼吸、
循環、危険に対する反応…
といった諸機能が、
脳死=人の死」だとする人たちの間で、
脳が身体全体を制御する証拠として挙げられてきた。

しかし、本当にそうなのか。

例えば、「呼吸」について。
「呼吸」とは、「肺による換気、という外呼吸」を意味するとする。

そもそも外呼吸は、身体の統合機能ではないし、
生存に必須でもない。

なぜなら、胎児や人工心肺によって循環を受けている患者は、
外呼吸がなくても、
身体の統合性を維持して生きていく。

つまり、外呼吸という意味での呼吸は、
身体の統合機能そのものではなく、
その条件である。

また、呼吸が細胞内のミトコンドリアでの酸素と二酸化炭素との
ガス交換という内呼吸を意味するなら、
呼吸は脳を介さないまま、
外呼吸以上に、
身体の統合性を造りだしている。

栄養についても。

栄養を飲食や嚥下と捉えると、
そこには脳が介在するが、
栄養が身体の統合性をもたらすわけではない。

逆に、、
栄養を生化学的な同化、とすると、
それは確かに身体の統合機能であるものの、
脳はほとんど関与していない。


大脳はもちろん、脳幹部もダメだと言われた、ほのさん。

外呼吸はないが、
人工呼吸器をかりて、
脳を介さず、
ガス交換を行って、
統合性を保って、「生きている」。

栄養はどうか。
経口の飲食ができず、胃チューブを通して摂取。
脳を介さず栄養を同化させて、
元気に成長している。

つまり。

「脳の統合機能の大半は、
実は身体を制御していない」
ということ。

脳の統合機能のうち、
身体の統合性に係わるものでさえ、
身体の統合性そのものを創り出しているわけではなく、
既存の統合性を維持し、改良しているに過ぎない。


整理する。

「脳死は人の死」とする根拠は、
「身体の有機的統合性の喪失」である。

にもかかわらず。

脳死判定では、
身体の統合性に係わる脳の機能には一切触れていないのである。

脳死判定では、
意識や頭蓋内神経機能や、
自発呼吸(外呼吸)の有無を調べるだけ。

脳の視床下部からの内分泌や血圧、
体温の維持などは、
脳が介在して身体の統合性を生み出す典型的な例なのに、
脳死判定からは、除外されている。

第二に、
「身体の統合機能には、
脳が介在しないものや、
一部の脳死者にも存在するものが多数ある」
という指摘。

まず、有機的統合性の定義とは。

第1の定義として。
ホメオスタシスの維持、老廃物の排泄、解毒、再利用、
エネルギー調整、低体温時に毛布をかけた際の体温維持、
怪我の治癒、免疫拒絶反応、
感染時の熱発反応、脳死者の妊娠の維持、
脳死の子どもの性的成熟や均整のとれた肉体成長、など。

第2の定義まで満たすものとして、
急性心肺停止・低血圧・誤嚥・敗血症などから回復して安定する能力、
積極的治療を終えた後の自然治癒、
尿崩症に医学的に対処した後に、
水分と電解質のバランスを自分で維持する能力、
慢性脳死者が集中治療を離れて、
最低限の看護だけで生きてゆく能力…など。



以上のように、
身体の統合性は脳によらないし、
脳の統合機能は身体を統御していない、とすると。

脳が統御しない身体の統合性は、
脳が介在することによって、
より活性化するものの、
能が無ければ消失するというものではない、ということである。


少々、難しくなった。

かあさんが、何を言いたかったか。

脳死診断を受けていない、ほのさんが、
脳死なのか、脳死状態なのか、
臨床的脳死診断を受けたのか、
そんなことは、どうでもいい。

だが、なんとも腑に落ちないことが、たくさんあった。

人間のすべてをつかさどっているはずの、脳が、
全部、ダメだよ、と、言われたのに、
なんで、ほのさんは、
こんなにもちゃ~んと、健康な2歳児同様、成長しているのか、
顔を真っ赤にして、うんちを踏ん張るのか、
「体温維持が出来ない」「低体温」なんて言われるけど、
じゃあ、どうして、電気毛布をかければ、
コントロールできるのか…。

かあさんも、
人間のすべては、脳がコントロールしていると思っていたのだ。

その一方で。

そうは言っても、
脳がダメだって、
ほのさんは、ちゃーんと意思表示するもん。
嬉しいって顔したり、
イヤだ~って言ったりするもん、って。

一般的な脳に対する、万能なイメージと、
脳がすべてではないということを、ほのさんが言ってるもん、という
娘から教わる「事実」とのハザマにあって、
臓器移植法改正の議論も重なり、
何が大切なことなのか、
少しわからなくなっていた。

「臓器の移植」という事柄に隠れて、
大切なことが議論されないできたこと、
完全に見失っていることを、
あらためて、思った。


問題は、もちろん、ほのさんが
「脳死」かどうか、ではない。

脳死に近い状態であろうと、
脳に障害がある状態であろうと、
脳に何らかの障害がある人たちを、
軽んじること、
価値の無いいのちだと、
暗に言っている、
ということに気付かなければならない。

脳がダメな人は、
生きていても、何も価値が無い。
脳がダメな状態で生きていても、
本人にとっても、何にも利益が無い。

「脳死者は、遠からず確実に死ぬ」
と言われているのは、
そういう意味なんだ。

人間は、みんな、確実に死ぬ。
生まれてきたということは、いずれ死が訪れるということだ。 

だが、脳死者だけが「確実に死ぬ」と
あえて言われなければならないのは、
「あとは死ぬだけだ」と言われているのと同じ。



脳がダメな状態で生きているほのさん。

ほのさんを毎日見ていて、
これが本当に「生きていてムダ」ないのちなのか、と思う。

ほのさんを知ってくださっているみなさんは、
そんなことないよ、
ほのさんは、ちゃーんと生きているよ、
と言ってくださるかも知れない。

だけど、
「脳死=人の死」だと言われていることは、
いろんな定義の誤りや、
言葉のアヤや、
理論のトリックがあるにせよ、
脳のダメなほのさんのいのちを否定することになる。

そして、脳死者が価値がないなら、
脳に障害がある人、
植物状態の人…
どんどん、価値のないといわれる人は増えていく。


かあさんは、
頭皮にまで伝わった脳の活動だけを探知している脳波検査で、
ほのさんの、その検査結果がたとえ「平坦」と言われても、
(ものすごい、身を切られるようなショックであるが)
目の前のほのさんが大切で愛おしいことに変わりがない。

だが、
そんな状態で生きていることに
「何の意味があるの」
「価値がない」
などと、
法律で決められることは、
ほのさんの親として、許しがたい。
人としても、許せない。

これまで書いたような知識がなくったって、
かあさんの目に映るほのさんはいつだって、
生まれたときからずっと、
統合性を保って、
人間らしく、生きてきた。
これからも、生きていく。
成長していく。


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by honohono1017 | 2009-11-24 18:32 | normalization

医療は何のためぞ。

先日、ほのおばたん、
元気なおんなのこを出産しました。

あらたないのちの誕生。

よろこばしきことかな。
早く、会いたいね、ほのさん。


さて、先日、報道ステーションで
小児の集中治療室「PICU」の特集をしていた。

PICUは、小児医療と救急医療の専門医が常時居て、
設備の整った病床のこと。

日本では、全国で12施設、108床。

そのうち、24時間対応できるところは、
東京 国立成育医療センター、静岡県立こども病院、
長野県立こども病院、兵庫県立こども病院…とさらに少なくなる。

先進国では、
この病床が「必要か必要でないか」という議論自体が起こらないほど、
「普通」のものらしいが、
日本のPICUの数は、
先進国のそれに比べて25年~30年遅れといわれている。

少し前、妊婦のたらい回しがマスコミで多く取り上げられていたが、
重症な小児の受け入れ拒否は、
妊婦の10倍にものぼるという。


厚生労働省の
「幼児死亡の分析と提言に関する研究(1)
病院あたりの死亡数の解析及び日英比較」によれば、
重症な小児が手近な病院に担ぎ込まれて亡くなるケースが多いという。

つまり、重症な小児を診た経験の無い病院に担ぎ込まれることなく、
PICUが整備されて、
そこに重症小児が集中されれば、
助かるいのちがたくさんあるということ…


それでは、なぜPICUの整備が進まないのか。

小児医療自体、不採算。
救急医療も、これまた不採算…

静岡県立こども病院の場合、
施設に4億7300万円、
運営でも昨年は、7200万円かかっているのだそう。

同病院のPICU医師はこう話す…

「前にいた病院で、
助からなかったこども、
重症な後遺症が残ったこどもも、
ここだったら助かったかもしれない、という印象を持つ」と…

小児は、大人とは大きく違うと言う。

「重症なこどもは一般的に短時間に色んな変化がおこったり、
色んな治療や処置も難しいことが多いが、
短時間の細かい変化に常に対応できる環境は
PICUしかない…」


さらに、
「成り行きで医療が進んでいる…」
という言葉が印象的だった。



キャスターの古館氏も、
PICUの存在すら知らなかったという。


この番組をみて、色んなことを思う。

PICU…
確かにそうだよなあ、と思う。

ほのさんはNICU出身者だ。

NICUの高度な技術によって、
その尊いいのちを、とりとめることができた。

新生児だったから…


もし、ほのさんが生まれたての赤ちゃんではなくて、
外から搬送されていたら、
一般の小児科に、担ぎ込まれていたら、
そのいのちは失われていたのかもしれない。



この医師の言うとおり、
この国の医療は、(医療だけじゃないかな)
本当に成り行きだ。

妊婦のたらい回しが続けば、
NICUの充実を…と言うが、
医師不足の問題や、診療報酬の問題に、
きちんと向き合っている様子も無い。

マスコミもそうだ。

何か一つの問題が起こって、
続けばなおさら、
センセーショナルな扱いをして、世を騒がす。

成り行きな上に、
付け焼刃。

問題の根本的解決をしようとしない。

膨れ上がる医療費をおさえたいならば、
本当にしなければならないことは、何か。

ひとつでも多くのいのちを救いたいのなら、
まず何をしなければならないのか。


例の、臓器移植法のことも、
「親族優先」などの記事がちょこちょこっと現れたりはするが、
なにがどう話し合われているのか、
全くわからない。

臓器移植どうこうよりも、
この救急医療、
特に小児の救急について、
一刻も早く手をつけなければならいはずだ。

確実に救うことの出来るいのちが、
その整備の遅れで、
失われているのだから。

採算があわないから、整備が遅れる…
そんな理由が「医療」の世界に通用するか?

通用してしまう世の中の「医療」って、
本当にいのちを救うための、ものなのか?

子ども手当て、どうこう言ってる場合じゃないぞ。

本当に。


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by honohono1017 | 2009-11-20 19:15 | normalization

みなさん忘れていませんか

みなさん、忘れていませんか。

眠りっ子ほのちゃんの話を読んで、思い出そう。

こちらから(ダウンロード)


さて、体調回復したほのさん。
今日は…

f0199379_1747421.jpg


f0199379_17484525.jpg


こうやって、美しいほのさんは、つくられる。

ちなみに、「眠りっ子ほのちゃん」のお話は
来月号に続きます。

ご購入希望の方は、
「いつでも元気」保健医療研究所
でんわ 03-5842-5656 まで~。

ためになるね~。
ためになったよ~。(もう中 風)
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by honohono1017 | 2009-08-23 17:51 | normalization

全国訪問看護事業協会からの応援団!

本日は、朝一番から、心地よい緊張とワクワク感で始まった。
ほのさんの大切な来客があるからだ。

いつものように訪問看護師Nさんが朝9時に到着。
バイタルをとっていただき、お風呂の準備をしていると
ピンポーンと…いらっしゃいました。

10月7日開催予定のシンポジウム
「輝け!地域で育むいのち ~重症キッズの楽しい在宅生活~」を開催したい!と
日々準備に追われ、数々の壁にぶちあったって、
時に打ちのめされそうになるかあさんを、
ほのさんをお願いしている「はみんぐ訪問看護ステーション」の所長、塙さんが、
色々と相談にのってくださっている中で、協力の依頼をしてくださり、
とにかく会ってお話を、と今日かけつけてくださった次第。

お客さまは…
全国訪問看護事業協会の
上野 桂子さま  (写真:中央)
宮崎 和加子さま (前)
梶山 沙織さま  (後ろ右)
塙 真美子所長  (後ろ左)

f0199379_16203248.jpg


上野さまも宮崎さまも、看護の第一人者であり、
看護ばかりか色々な活動をなさっていらっしゃって、
かあさんなどがお会いしたくても、そうそうお会いできる方たちではないのです。

お目にかかれたばかりか、
シンポジウムに積極的に協力してくださることになり、
「応援団」となっていただくことができました066.gif



まず、ほのさんの入浴シーン(!)を見ていただきました。
いっつもどんな時も、肝っ玉の座っているほのさんですが、
なんだか今日ばかりは緊張…というよりは、ゲストのすばらしい面々に興奮してしまったのか、
お風呂から上がると、熱も心拍もずいぶんと高くなってしまい…。
ちょっとばかし心配になりましたが、そこはほのさん。
5分もすると熱も心拍も普段どおりに落ち着いてきました。

Nさんにいつもどおりのケアをして頂いた後、みなさんとお話。

塙所長からは、「おかあさんの思いを素直にお話なさい」とおっしゃっていただいていたものの、
ほのさんとの生活で感じてきたたくさんのこと、
今回のシンポジウムにかける思いはふか~く、熱いものの、
決心してからこの約3ヶ月、
各方面との交渉、依頼、そのための文章作成などを、
ほのさんのお許しの出た合間に行い、
思いのほか許可をいただくのに手間取ったり、
想定外の展開に数々あっていたため、
シンポの形態から内容が、かあさんのちっちゃな器との相談で、
その時々で変化していたこともあって、
内容についての構想はほぼ白紙状態。

言いだしっぺがそんな宙ぶらりんでは、
普通は相談されてもこまってしまうのだけれど、
そこはみなさん、キャリアと器とお人柄でもって、
どんどん、どんどん導いてくださる…。

かあさん、自分が相談している張本人なのに、
ス、スゴイ…
と感激、あっけにとられて、しばし、ぽかーんと。

ともすれば、かあさんとほのさんの生活は、とっても狭い世界になりがちで。
狭い部屋で、ほのさんと顔を突き合わせ、
あーでもない、こーでもない、
無い知恵を絞って、そこから生まれることはたかが知れている。

でも、こうして塙所長のお陰で、ご縁あってステキな出会いをすることができ、
その「出会い」の中で、世界はパーッと広がり、
細く暗いトンネルの先にちっちゃな光がかすかに見えていた状態だったけど、
目の前がパッと明るく開けた今日。

ほのさんとの生活の中で、物理的に外に出れないことなどから、
自分は社会と遮断されて、閉じこもった生活していると感じてどよーんとすることも多々。
でも、人は、
どこにいても、どんな生活をしていても、
どんな形でも、手を伸ばせば、誰かと繋がりを持つことができるんだ。
あらためて、いつも感謝の気持ちを忘れないこと、
自ら発信し、努力することの大切さをひしひしと感じました。

そして、あの時の自分のやり方は、うまくなかったな、と
反省したりもします。

とにかく、この力強くあたたかい応援団を得て、
ほのさんとの日々の生活においても、さらにパワーが湧き、
シンポジウムに対する意気込みもさらにあつ~く(そう見えないところがコワイけど)なり。

近々、みなさんにもきちんとお知らせします。
みなさんもどうか、応援団となり、ほのさんとかあさんにパワーをください!


先駆けて、本日その場でいただいた、
上野さまと宮崎さまからの応援メッセージを!

☆応援メッセージ☆
人工呼吸器もほのかちゃんの身体の一部ととらえ、
リーク音は子どもの話し声とききとり、
会話しながら楽しく在宅生活をしている
お母さんにエールを送りたいと思います。



宮崎和加子さんのオフィシャルサイト  
http://www.miyazaki-wakako.jp/

全国訪問看護事業協会  

(番外編)

かあさんは、事前に宮崎さんのブログをチェックさせていただいていたのですが、
シャンソンをうたっていらっしゃる写真がアップされていて、
そんなお願いムリだろうなあ…と思いつつ、
是非、聴きたいです!とお話したところ、
こころよく、歌っていただけて、ほのさんも生まれてはじめて聴くフランス語に
ドキドキ、うっとりしていました。
「オー、シャンゼリゼ~ 」


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by honohono1017 | 2009-08-19 17:27 | normalization

日々、之勉強…

「支援すること」と「支援されること」について、
また、深く考えた。

ここのところ、10月に開催を予定しているシンポジウムが、
もうすぐみなさんにお知らせできる形にまで準備が進んできた。

その中で、開催したいという意図に共感し、協力してくださるとおっしゃってくださる
多くの方たちと、ステキな出会いをした。
本当に有り難いことだ。

ほのとうさんは、対人援助職だ。
かあさんもかつては医療従事者で、学生時代は心理について学んだ。

ほのさんを授かってからは、まさに「支援される」立場になった。

そんななか、かあさんが今思うこと。
難しい言葉で、堅苦しく言えば、
「人権」
になるかなあ。

学習上、仕事上、そんな言葉は耳にタコができるほど聞いてきたが、
人権って、何?
って聞かれたら、
そりゃあ、あんた、ほれ、人権でしょうよ…
みたいな、抽象的な理解だった。


支援される人は、必然的に社会的に弱い立場の人だ。
支援する人は、それが職業だったり、ボランティアだったり、色々だ。

しかし、どんな場合においても大切なことがあると思う。

「支援する人と、支援される人が対等であること」

支援、云々はともかく、
人はみんなそれぞれ、価値がある。
存在している意義がある。
支えあって生きている。

支援が必要な人は、そうでない人より劣るわけではない。
支援が必要な人も、誰かを助け、支えとなり、社会を作る一員なのだ。
みな一様に「人権」がある。

だからこそ、助けが必要な人に「支援しよう」という発想が生まれる。

劣った存在に対する哀れみや施しとは違うのだ。

助けをかりることで「支援される人は」社会の一員として責任を果たし、
誰かの支えとなることができるのだろう。

そういった対等な立場で行われる「支援」だからこそ、
支援された方は、感謝の気持ちをもつ。
ありがとう、と言う。


かあさんは、ほのさんを我が家で育ててこの1年、
ほのさんを「自立」させることをいつも思ってきた。
変に思われるかもしれないが。

ほとんど自分でできることなどないほのさんだが、
かあさんはこれまで、ほのさんにたくさんのことを学ばされてきた。
ほのさんのいのちを通して、たくさんの素晴らしい出会いをした。
それは、もの言わぬほのさんの存在意義であると思う。

「障害者の人権」
などと言われても、うまく説明できないが、
「人権は」何ができて、何ができない、などということとは無関係だ。
いのちそのものなのかなあと、思う。

そう思えばこそ、
ほのさんはたくさんの方たちの支援を受けることで、
ほのさん自身も何かを返していけるはずだと信じている。
ほのさんが存在することで、世の中に何かを投げかける事だってできると思う。

うまく言えないが、
「支援すること」と「支援されること」ってそういうことかなあと思う。

だけど、「支援」が双方の関係の中でそのように行われるのは、非常に難しい。

支援する側は、「してあげる」という気持ちに陥りやすい。
支援される側は、「それはおかしい」と思うことがあっても、
「助けてもらっているから仕方ない」と思い、伝えることができない。

本来、お互いの存在を、尊厳を認め合うところから始まったはずの「支援」が
そのような形になるのは、本当に残念でならない。

ほのさんが、毎日たくさんの方に支援される中で、
ほのさんとかあさんは、常に感謝の気持ちを忘れてはならないし、
支援される責任についても忘れてはいけないなあと、つくづく思う。

そんな思いで苦しんでいたところ、
思い切って、Tさんに相談してみた。

きちんとかあさんの話に耳を傾けてくださり、
お仕事の枠内できちんとした対応をとってくださった。
「支援」である。
そして、ほのさんとかあさんは、感謝した。

「支援」が仕事であれば、その中で
「できること」と「できないこと」をはっきりしてもらうことがまず何よりだ。


もうひとつ。
ほのじいさんから今日、教えてもらったことば。

「巧言令色、少なし仁」
巧みに飾った口先だけの言葉や、
人の気に入るような態度をとることは
他人を思いやり、おのれにうちかつ徳が少ない、
ということらしい…。

なるへそ。
ふむふむ。

人の道は、
深くて、遠い。

日々、之勉強。

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by honohono1017 | 2009-08-12 19:24 | normalization

日が暮れる前に

宇都宮にある、重症障害児レスパイト施設「うりずん」についての番組の再放送を見た。

3週間ほど前にも放送されて、見逃したかあさんは、何人かの方に教えてもらっていた。

今日までに、ホームページなどを調べて、資料を読んだ。

すばらしい、思っていたが、
今日の再放送を見て、本当にすばらしい!と思った。

人工呼吸器をつけて在宅生活を送るお子さんの往診をなさっていたクリニックの高橋先生が、
毎回、往診に行くたびに、お母さんが疲れきったお顔をなさっているのを見て、
自分が、預かり施設を
「やるしかない!」と思われたのだそうだ。

やらない理由を考えるのではなく
やる理由だけを考えた

そうだ。

並大抵のことではない。

現行の制度にはのっからなかったこの預かり施設。
採算が会う見通しのないままはじめた事業。
高橋先生が何度も宇都宮市の障害福祉課に出向いていかれて、
その必要性を訴えられたという。

宇都宮市障害福祉課長は、
「診療所の個人の先生が熱い思いで事業を展開しようとしているということは
市としてこの事業を手がける必要性があると感じた」と話す。

高橋先生の熱意もさることながら、
この事業に市としてお金を出そうと決めた宇都宮も、すごいと思う。
現在10名程度のお子さんが利用されているということだから、
宇都宮の大勢の子どもたちの中の、10名のための、事業なのだ。

高橋先生のような先生は、本当に、稀だ。
だからこそ、役所も先生の熱意にうごかされたのだろう。

ただ、事業として必要性を感じなければならないのは、
「個人の先生が熱い思いで動いているから」ではなく、
そこに、人工呼吸器をつけた子どもが自宅で暮らしているから、そんな子どもの育児をしている親がいるから、
ではないんだろうか、と思う。

第2の高橋先生が、ほのさんの近隣に現れてくれるのを待っていたら、
日が暮れてしまう。

しかし、家族の声だけでは、どうにもならない。

支援ってなんだろう、と
今日も、思う。

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by honohono1017 | 2009-07-29 18:17 | normalization

「支援」とは何ぞや

我が家は、ほのさんは、支援を必要としている。

しかし、残念ながら、現行の自立支援法では、カバーできていない。

だから、毎日こんな生活をしていて、こんなことに困っている、と
率直な意見を述べることで、少しでも世の中が変わっていったら…と願う。

だが、実際にほのさんのような子どもとの生活で、何が大変なのか、
うまく訴えることは、本当に難しい。

こういう子どものことを少しでも知っている人は、よく、
「吸引したりするの、大変ですね」とよく言う。
「わかります」と言う。

しかし、どうだ。

実際、ほのさんは、吸引よりも、膀胱を押しておしっこをさせてあげることのほうが難しい。
時間もかかる。

だが、その「用手排尿」も「吸引」も、ほのさんとの生活では「当たり前」ことだ。

本当に難しいのは、例えば、物言えぬ子の体調管理。
一言で「体調管理」と言っても、いろんなことがある。

モニターに現れる2つの数値と、胃に残ったミルクの量、おっしやこうんちの出具合、
聴診器できく胸の音、人口呼吸器の圧の数値、声の出方、体温、そして、表情…

すべてを総合して、今、ほのさんがどういう状態なのか、
病院に連れて行くべきか、家で様子を見るべきか、判断しなければならない。
そして、その判断は、間違うと命取りになりかねない。

落ち着いているように見えてもいつなんどき、SOS信号を送ってくるかわからない。

かあさんはいつでも、受信できなくてはならない。

そういうことを無意識にやりながら、日常生活を送る。

掃除をしていても、洗濯をしていても、料理をしていても、仮眠していたって
意識は眠らない。

そういう事情は、我が家をたった何分かみただけではわからない。
ほのさんは、穏やかな顔でいるし、
かあさんだって、来客中は相手をしながらほのさんをみる術を身につけているから。

こういった状況は、かあさんだってほのさんの親になって初めてわかったことだ。

なんだって、そうだ。当事者になってはじめてわかることがある。

だからこそ、聞く側が、「わかっている」という態度では、到底こちらの声は届かない。

本当の生活というものを把握してもらえなければ、問題は明らかにならないし、
改善すべきが何か、見えるはずもないだろう。

健康で、不自由なく暮らしていれば、特に意識したりしないだろうが、
ほのさんのように弱い立場の人たちは、結局「法律」で守られるしかない。

法律で定められている範囲での支援を受け、生活をするしかない。
逆に言えば、法律で定められていないことは、希望しても叶えられないということになる。

そうでなければ、かあさんだって、苦労していろんな働きかけをすることもないだろう。

ほのさんにとってかあさんにとって、「法律」のことは「法律」のことではなく、
「生活」のことであり、「いのち」のことであり、非常に切実な日々のことなのだ。

支援を必要としている人たちが、法律や権利について声高に主張をするのは、
「政治的」だからではない。

それだけ、必死なのだ。

そこを理解せずして、
「支援」とは、なんぞや。

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by honohono1017 | 2009-07-28 21:06 | normalization


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