ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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施行から1年、「変化」の日。



昨晩、このニュースを知って衝撃が走った。

Reiharakami さんの、急逝。

夏フェスでも、矢野顕子さんとのユニット、
「Yanokami」で出演される予定だったのに。

才能溢れる40歳。

いのちの終わりは、年齢にも境遇にも関係なく、
突然やってくるものなのだなと、しみじみ。

残してくれた音楽を、
聴き続けようと思う。



そんなニュースと共に書き留めておこうと思うのは、
去る、7月17日、
改正臓器移植法が施行されて丸1年が経ち、
それにあわせて7月18日、開催された
臓器移植法を問い直す市民団体主催の、
市民の集いに参加したときのこと。

脳死・臓器移植の問題については、
いろいろな考えの人がいて、
そして、その異なる意見は、
ある意味、いつまでも平行線かもしれず、
どちらがどうというわけでもなく、
ただ、施行1年を振り返って、
法律としてどうなのか、
きちんとした手続きをふんで、
いのちがきちんと扱われているかどうかを、
検証しなければならない、という風に考えていた。

だから、今回の集いの、

「少年自殺者からの臓器摘出は許されるのか?」

という副題に関しては、
何を思ったらよいのか到底わからず、
気が遠くなるほどの気持ちがしていた。




集いはまず、

「いのちへの作法 ~自殺者からの臓器摘出は許されるのか?」

と題して、

和光大学名誉教授、最首悟先生(生物学)から
お話をうかがった。

先生のお話は、きわめて観念的・思想的で、
「自殺者」とか「臓器移植」についてにかかわる内容はほとんど無く、
科学技術や文明の発達に伴って、
「精神」と「物質(あるいは肉体)」が
どのように扱われるようになってきたか、ということから始まり、

「いのち」の「はじまり」についてや、起源、
「いのち」が「つづく」ということなど、
「いのち論」ということに終始されたように思った。



自殺であるとか、病死であるとか、
その場合の臓器をどうするか、とか、
そのような議論自体に薄気味悪さを覚えるかあさんとしては、
そもそも論のような、「いのち」に対するお考えをお話になった、
最首先生のお話は、とても興味深くありがたかった。




その後、主催者から、
この1年を振り返っての、
臓器提供事例報告と問題点などが報告された。

その中で、生体腎移植後に、予後が悪化した事例などがあるとか、
かつての「和田心臓移植事件」のことなどが引き合いに出されたりしたことに関して、
会場から発言があった。

お嬢さんが、何年か前にアメリカで移植を受けられたという、
お父さまからの発言だった。

予後が悪化したろいうような事例ばかりではないし、
移植医についても、自身の野望に駆り立てられているような医師ばかりでなく、
実際には、真摯にいのちを救うことに取り組まれている先生方も、
たくさん知っています、
といった内容だった。



かあさんは、
実際にお子さんが移植を受けられたという親御さんのご意見を、
直接うかがう機会はこれがはじめてだったので、
この集いにおいて発言されるお父さまの表情、ことばに、
非常に心を打たれた。



集いの後半では、
議論の時間となっており、
予め主催者から発言を要請されていたのだが、
この集いの主旨に添った、
つまり、「少年自殺者からの臓器摘出」に関して、
とりたてて述べさせてもらう意見も持っていなかったため、
迷いながら出席していたかあさんだが、

このお父さまが、この集いに参加されていること、
この場で発言された意味、
最首先生からうかがった「いのち論」で、
かあさんの心は決まった。



かあさんの発言の趣旨はこうだ。

まず、生まれてすぐに脳死に近い状態になったほのさんの母として、
法的脳死判定を受けたわけではないので、
非常に微妙なボーダーラインに乗った立場であること。

ただし、ほのさんや我が家にとっては、
脳死臓器移植の問題は関係の無いことであること。

だが、最首先生のことばをお借りすれば、
「表現の義務」があると考えてこの集いに参加したということ。

そして。

この脳死臓器移植の問題について、
かあさんがいろんなところで意見を言おうとすると、
すぐに「ほのかあさんは臓器移植反対だから」とか、
「病気に苦しむ子どもの親の気持ちがわからないのか」とか、
「ほのさんは色んな人に助けてもらっているのだからマシ」などと言った、
かあさんが言おうとしていることとはまったく別のことをすぐに言われてしまい、

本当は、
今日いらしている、お父さまと、
「反対の立場」でもなんでもなく、
「対立」しているわけでもなく、
そのような構図が作られてしまっているだけで、

本来、この問題は、
そのような構図の中で話し合われるものではないということ。


最首先生のことばをお借りすれば、

『「その方に向かない矢」の議論が欠かさない』
ということだろう。




「立場によって意見が違うのはあたりまえ」
ということがよく聞かれる。

かあさんも、その通りだと思う。

そして、その立場の違いによって生まれる意見の相違は、
お互いに、永遠に、相容れないものかもしれない。

でも、
問題の本質はそこだろうか。



人の考えは、
おかれた環境、境遇、人間関係……
さまざまなことの影響を受けて形成されていく。

違うのは、当然だ。

自分と「違う」ということを、
すっと聞き入れて、
自分の考えに取り入れたり、変化させたりできる人もいれば、
「違い」は、頑なに拒否して、受け付けないひともいるだろう。

それもまた、
「違い」のひとつだ。



かあさんは、
この「脳死臓器移植」の問題を、
「いのち」の問題だと捉えている。

どの立場だとどうで、
こっちの立場だと、こう変わる、
というような事象ではなく、

この世に生きている人が平等に与えられた、
「いのち」の問題。

立場を超えて、
もっと、普遍的な……。



いろんな「いのち」があって、
いろんな選択肢も与えられる世の中である。

「いのち」が平等に与えられているのなら、

どんな「いのち」も、
よりよく生きる機会が与えられるはずだ。

そして、「立場」というのは、
普遍的なものではない。

今、置かれている環境は、
明日、変わっていることもある。

自分の「いのち」の明日さえわからない。



「たったいま」の、
「ひとつの選択」に、固執することなく、
この集いに参加されていたこのお父さまに会えたこと、
移植を受けて、
いまも元気にしていらっしゃる女の子がいるということを、
肌で感じられたということが、
かあさんにとっては、
非常に貴重な経験となり、感謝している。

このお父さまとは、
またどこかでお目にかかりたいですね、
と、最後にお話した。





生きているということは、
変化だ。

生き方も、
考えも、
「いのち」も。

「出会い」は、変化を与えてくれる。



「自分自身がこの世で見たいと思う変化になりなさい」

そんなことばを、思い出した。





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by honohono1017 | 2011-07-29 11:59 | News/Report
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