ほのさんのバラ色在宅生活


低酸素脳症、人工呼吸器をつけた娘とのナナコロビヤオキ的泣き笑いのバラ色在宅ライフ
by honohono1017
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287日目。

今日は、久しぶりにこの話題を書くことになってしまった。

22日夕、北海道内の病院で、
20歳代の女性が臓器移植法に基づいて
脳死と判定された。

23日に、臓器の摘出を終えた。

同日から24日にかけて、
各臓器の移植が行われているという。


今回の臓器移植は、
97年10月の施行以来82例目で、
今年7月の改正法成立後、初。

臓器移植は今年2月から途絶えており、
空白期間は、
1例目が出て以降、
最長の286日間…


ここのところ、
臓器移植について、
そもそものところから、勉強しなおしていたところだった。

この記事を見て、何を思うか。
何を思えばいいか。

正直、何か激しい感情が起こったわけではない。

だが、あまりにも色んなことが頭を巡って、
沈黙の音が「キーン」と鳴り響いた。

その中で、
ほのさんの、規則的な「声」が響く。



1968年、「不可逆的昏睡」が着目されて、
「脳死」という名称に改名された。

世の中は、心臓移植のブーム真っ盛り。
動いている心臓を取り出して移植を行えば、
殺人罪に問われかねない。

心臓移植をつつがなく行うためには、
「不可逆的昏睡」を
人の「死」にする必要があったのだ。




今年の夏に、日本での臓器移植法改正の議論の中で、
日本移植学会の理事長が、
「いくら心臓が動き続けても、脳機能は二度と回復せず、必ず心臓も止まる」。
と強調していたことを、鮮明に覚えている。

長期脳死と呼ばれるこどもについて、このように述べているのだが。

このことは、(今さらながら)二つの大きな問題をはらんでいる。

第一に、「脳死=人の死」であることを証明しようとする発言であるはずが、
(脳死状態で)心臓が動き続けていても、
「必ず心臓は止まる(心臓死にいたる)」と言っていること。

心臓死が人の死であることは、
誰もがそうであると受け入れる。

つまり、「心臓が止まる=死ぬ」ということならば、
脳死者は心臓が動いているのであって、
「死んだも同然」といいたいのだろうが、
「死んだも同然」と「死んでいる」のとでは
全く違う。

彼らが「死んだも同然」ということは、
つまりその人は、「生きている」と認めているということだ。

なんだか、あげあしをとっているように思うかもしれないが、
それくらい、無理のある話であって、
よくよく考えれば、トリックだらけなのだ。

もし、移植をするために、
生きた人間にメスを入れて臓器を取り出す…
ということに、あなたは賛成できますか…
と問われたら、人々の回答は違ってくるはずだ。


第二に、人間の臓器の一つである「脳」がダメになると
どうして「死」とみなされるのか、という問題。

脳とは、わたしたちの体の数ある器官の中で、
中心的な統合体、すなわち、
身体の中枢器官であり、
それが破壊されたり不可逆的に機能停止すれば、
身体の有機的統合性は失われる…
という考えが一般的だからだと思われる。

では、本当に
脳は身体の中枢器官であり、
その脳がダメになると、
体の統合性は失われて、
「死」に至るのか…


近年の医学では、
身体の基本的な構成要素である、
各臓器、器官が相互依存性を保ちながら、
それぞれ精神的・肉体的活動や、
体内環境の維持(ホメオスタシス)のために
機能を分担して、全体として統合性を保っている状態を、
「人の生」とし、
こうした統合性が失われた状態をもって
「人の死」とする考えである。

そして、その統合性を保つのに欠かせないのが
「脳」である、というわけだ。

これに対して、次のような指摘がなされている。

第一に、「脳の統合機能の大半は、
実は身体を制御していない」。

これまで、
体温調整、水分や電解質調整、栄養、呼吸、
循環、危険に対する反応…
といった諸機能が、
脳死=人の死」だとする人たちの間で、
脳が身体全体を制御する証拠として挙げられてきた。

しかし、本当にそうなのか。

例えば、「呼吸」について。
「呼吸」とは、「肺による換気、という外呼吸」を意味するとする。

そもそも外呼吸は、身体の統合機能ではないし、
生存に必須でもない。

なぜなら、胎児や人工心肺によって循環を受けている患者は、
外呼吸がなくても、
身体の統合性を維持して生きていく。

つまり、外呼吸という意味での呼吸は、
身体の統合機能そのものではなく、
その条件である。

また、呼吸が細胞内のミトコンドリアでの酸素と二酸化炭素との
ガス交換という内呼吸を意味するなら、
呼吸は脳を介さないまま、
外呼吸以上に、
身体の統合性を造りだしている。

栄養についても。

栄養を飲食や嚥下と捉えると、
そこには脳が介在するが、
栄養が身体の統合性をもたらすわけではない。

逆に、、
栄養を生化学的な同化、とすると、
それは確かに身体の統合機能であるものの、
脳はほとんど関与していない。


大脳はもちろん、脳幹部もダメだと言われた、ほのさん。

外呼吸はないが、
人工呼吸器をかりて、
脳を介さず、
ガス交換を行って、
統合性を保って、「生きている」。

栄養はどうか。
経口の飲食ができず、胃チューブを通して摂取。
脳を介さず栄養を同化させて、
元気に成長している。

つまり。

「脳の統合機能の大半は、
実は身体を制御していない」
ということ。

脳の統合機能のうち、
身体の統合性に係わるものでさえ、
身体の統合性そのものを創り出しているわけではなく、
既存の統合性を維持し、改良しているに過ぎない。


整理する。

「脳死は人の死」とする根拠は、
「身体の有機的統合性の喪失」である。

にもかかわらず。

脳死判定では、
身体の統合性に係わる脳の機能には一切触れていないのである。

脳死判定では、
意識や頭蓋内神経機能や、
自発呼吸(外呼吸)の有無を調べるだけ。

脳の視床下部からの内分泌や血圧、
体温の維持などは、
脳が介在して身体の統合性を生み出す典型的な例なのに、
脳死判定からは、除外されている。

第二に、
「身体の統合機能には、
脳が介在しないものや、
一部の脳死者にも存在するものが多数ある」
という指摘。

まず、有機的統合性の定義とは。

第1の定義として。
ホメオスタシスの維持、老廃物の排泄、解毒、再利用、
エネルギー調整、低体温時に毛布をかけた際の体温維持、
怪我の治癒、免疫拒絶反応、
感染時の熱発反応、脳死者の妊娠の維持、
脳死の子どもの性的成熟や均整のとれた肉体成長、など。

第2の定義まで満たすものとして、
急性心肺停止・低血圧・誤嚥・敗血症などから回復して安定する能力、
積極的治療を終えた後の自然治癒、
尿崩症に医学的に対処した後に、
水分と電解質のバランスを自分で維持する能力、
慢性脳死者が集中治療を離れて、
最低限の看護だけで生きてゆく能力…など。



以上のように、
身体の統合性は脳によらないし、
脳の統合機能は身体を統御していない、とすると。

脳が統御しない身体の統合性は、
脳が介在することによって、
より活性化するものの、
能が無ければ消失するというものではない、ということである。


少々、難しくなった。

かあさんが、何を言いたかったか。

脳死診断を受けていない、ほのさんが、
脳死なのか、脳死状態なのか、
臨床的脳死診断を受けたのか、
そんなことは、どうでもいい。

だが、なんとも腑に落ちないことが、たくさんあった。

人間のすべてをつかさどっているはずの、脳が、
全部、ダメだよ、と、言われたのに、
なんで、ほのさんは、
こんなにもちゃ~んと、健康な2歳児同様、成長しているのか、
顔を真っ赤にして、うんちを踏ん張るのか、
「体温維持が出来ない」「低体温」なんて言われるけど、
じゃあ、どうして、電気毛布をかければ、
コントロールできるのか…。

かあさんも、
人間のすべては、脳がコントロールしていると思っていたのだ。

その一方で。

そうは言っても、
脳がダメだって、
ほのさんは、ちゃーんと意思表示するもん。
嬉しいって顔したり、
イヤだ~って言ったりするもん、って。

一般的な脳に対する、万能なイメージと、
脳がすべてではないということを、ほのさんが言ってるもん、という
娘から教わる「事実」とのハザマにあって、
臓器移植法改正の議論も重なり、
何が大切なことなのか、
少しわからなくなっていた。

「臓器の移植」という事柄に隠れて、
大切なことが議論されないできたこと、
完全に見失っていることを、
あらためて、思った。


問題は、もちろん、ほのさんが
「脳死」かどうか、ではない。

脳死に近い状態であろうと、
脳に障害がある状態であろうと、
脳に何らかの障害がある人たちを、
軽んじること、
価値の無いいのちだと、
暗に言っている、
ということに気付かなければならない。

脳がダメな人は、
生きていても、何も価値が無い。
脳がダメな状態で生きていても、
本人にとっても、何にも利益が無い。

「脳死者は、遠からず確実に死ぬ」
と言われているのは、
そういう意味なんだ。

人間は、みんな、確実に死ぬ。
生まれてきたということは、いずれ死が訪れるということだ。 

だが、脳死者だけが「確実に死ぬ」と
あえて言われなければならないのは、
「あとは死ぬだけだ」と言われているのと同じ。



脳がダメな状態で生きているほのさん。

ほのさんを毎日見ていて、
これが本当に「生きていてムダ」ないのちなのか、と思う。

ほのさんを知ってくださっているみなさんは、
そんなことないよ、
ほのさんは、ちゃーんと生きているよ、
と言ってくださるかも知れない。

だけど、
「脳死=人の死」だと言われていることは、
いろんな定義の誤りや、
言葉のアヤや、
理論のトリックがあるにせよ、
脳のダメなほのさんのいのちを否定することになる。

そして、脳死者が価値がないなら、
脳に障害がある人、
植物状態の人…
どんどん、価値のないといわれる人は増えていく。


かあさんは、
頭皮にまで伝わった脳の活動だけを探知している脳波検査で、
ほのさんの、その検査結果がたとえ「平坦」と言われても、
(ものすごい、身を切られるようなショックであるが)
目の前のほのさんが大切で愛おしいことに変わりがない。

だが、
そんな状態で生きていることに
「何の意味があるの」
「価値がない」
などと、
法律で決められることは、
ほのさんの親として、許しがたい。
人としても、許せない。

これまで書いたような知識がなくったって、
かあさんの目に映るほのさんはいつだって、
生まれたときからずっと、
統合性を保って、
人間らしく、生きてきた。
これからも、生きていく。
成長していく。


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by honohono1017 | 2009-11-24 18:32 | normalization
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